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  • from: クマドンさん

    2020年09月17日 07時22分49秒

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    「メメント・モリ」で生きる

    万葉学者の上野まことさんのお話。(名前の漢字が分からない。ごめんなさい)

    「疫病は、時間を早回しする力がある」と言っていた。
    本当にそうだなぁと、合点だった。
    この新型ウイルが感染を拡大しなかったら、
    どんな今日を迎えていたのかの「問い」でもあった。
    この疫病によって、本当は必要ではなかったのに、
    そうあるべきや、そうすべき、ことの嘘が明らかになったのではないのかだった。

    特に、人の「死」に対する考え方や想いは、大きな変化を遂げたのではないだろうか。
    ルネッサンスは、ペストから始まった。
    それは、教会に「メメント・モリ」との言葉が掲げられことからでもあったそうだ。
    「死を想う」
    みんなは、誰でも迎えねばならない「死」について、
    考えるゆとりも無く、時間と仕事に奔走されて生きていたのかも知れない。
    家庭を顧みず、家族のことを忘れ、仕事仕事で健康と体力と睡眠時間を削って働く、
    ハード―ワークを自らに嫁して来たが、
    本当にそのことが人生の幸福感となるのかの「問い」だった。

    また、感染の危険は大都市に住む人たちには大きなものとなる。
    テレワークができるのなら、何も都会やその周辺に住むことは無い。
    何よりも家賃だけで20万円のマンションだ。
    働いた稼ぎの大半がそうした生活のために使われる。
    地方の田舎暮らしなら、とれだけ経済的に楽であうか。
    感染リスクも少なく、自然の中での伸び伸びとした子育てもできる。
    地方に移住することを考えた人も多いと思う。

    家族のこともそうだった。
    ワーカーホリックの人たちにとっては、ゆっくりとした子育ては考えられない。
    まず、子どもを預ける。そして、遅くまで仕事をする。
    休日も会社の為に返上し、たくさんの仕事を持ち帰って来ることもある。
    子育てを優先順位の一位としていない。
    それができない生活や仕事とは、家族にとって幸福なのかの「問い」だな。

    巣ごもりをすることで、家族と一緒に生活することの楽しさを味わう。
    それは一緒に居るといろいろと煩わしいこともあるが、
    新たな妻の子の一面を発揮する機会ともなったと思う。
    顔と顔とを向き合わせて、お互いの気持ちや感情、思いを受け入れつつ生活する。
    家族であるとは、そうしたお互いを尊重し合い、助け合う生活をすることだ。
    そのことを、私たちは忘れていたことに、きっと気付いた人が多いはずだ。

    そして、「独り」の時間だ。
    家でゆっくりと独りで過ごす。
    どこにも行かない。家で過ごす。
    すると、新たな気付きと、発見だったと私は思う。
    花を育ててみたり、料理をしてみたり、読書に没頭してみたり、
    ピアノを再開してみたり、美味しいコーヒーの淹れ方を研究してみたり、
    DVDで好きな映画を観つづけたり、ぼーっと窓から空を見上げたり、
    独りだからできることの楽しさを、きっと味わった人も多いはずだ。

    もし、ウイルス禍が無かったら、
    きっと私たちはいつものように追い立てられるようにして、
    多忙な生活の中で、流されて生きていたのではないだろうか。

    つまり、いつか必ずそれぞれの人たちが、それぞれの自分の人生を振り返って、
    考えねばならなかったことを、立ち止まり、一息ついて、考える機会と時間を、
    このコロナ禍は、全ての人に与えてくれたとのことだった。
    人は、立ち止まって考えことが大切だ。
    そして、来し方を振り返って俯瞰することも大事な生き方となる。
    さして、自分も「死」に向かって歩く旅をしているのだと気付くことも、
    とてもとても大事だった。
    何故なら、そこで初めて「生きることの哲学」と出会うからだ。

    人は、死ぬ。
    それでは、この限られた人生をどのように生きたら幸せなのか。
    その「幸せ」を考えた時、仕事・地位・名誉・権力・金・財産は、
    どんな優先順位になるのかの「問い」だな。

    健康を犠牲にして、自分の大切な人生の時間を交感して、その対価としてお金を得る。
    そのお金は、高い家賃と食費と贅沢な品々に使われる。
    子どものことを忘れ、妻のことを忘れ、ただ馬車馬のように働く。
    しかし、ある日、早期退職・リストラを言い渡される。
    無職になったら、生活のために貯蓄は使われ、預金の残高はどんどん減る、減る。
    やっと戦いとった地位と名誉は、だれもそんなもの偉いとは思わないものだ。
    退職してからもきっと「俺が、俺が」で生涯を終える。
    そんな父親が居たら、疎ましくて仕方ない。
    家族が離れ、捨てられるのが落ちである。
    求めて来たものは全て手に入れた。
    では、その人は、本当に幸せなのかの問いだった。

    だから、「一生」と言う。
    人生は、二度はない。たった一度の片道の旅。
    その旅の終着駅は、死である。
    その死を前にして、これらのものにしがみつくだけの価値があるのか。
    これらのものは、自分の人生を幸せにしてくれるのか。
    「ほどほど」でいい。「いい加減」でいい。
    その気付きと、発見を、コロナ禍の中で、1人ひとりがしたと思う。

    人生の時間を早回ししたら、明日「死」ぬこともあり得ることだ。
    それでは、「今、ここ、自分」をどう生きるか。
    その「問い」こそ、哲学であり、神や仏につながる問いでもあった。

    「この世にて 楽しくあれば 来ぬ世には 牛にも鳥にも 我はなりなん」
                               大伴旅人

    いい和歌だなぁと、気持ちよくなってしまった。
    この世の生を楽しむことだ。
    この一時一時を味わいつつ、喜びと感謝をしつつ、生きることだ。
    そして、その喜びや感謝を妨げるものとは、かかわらないことだ。
    つまり、これらのことから、別れ・離れる生き方なんだな。

    「解き放つ必要がある」と、上野さんははっきりと言った。

    「生きるもの ついには死ぬものにあらば 
      この世にある間は 楽しくもあらな  」

    この和歌も気持ちいい。
    みんなも、誰もが、ついには死ぬものなんだな。
    これからの私の人生は、終い方の人生なんだと、ふと感ずる。
    どう終ったら自分の人生を幸せに感じられるのかと、
    日々、そんなことを考えている。

    名誉ではないな。
    地位や役職ではないな。
    金ではないな。(いい加減にあればいい)
    権威や権力ではないな。
    財産ではないな。

    つまり、そこに幸せは無いと考えられるものから、離れることだ。
    そして、それまで騙されて、それが無いと幸せになれないと思い込まされたことを、
    一つ一つ自分の死に向かった人生に必要なことかどうか、
    点検して、断捨離をすることだ。

    上野さんは、奈良の大学で教鞭だ。
    90歳の母親は介護を要する身体で、福岡の博多だった。
    彼は、その母を奈良に呼んだ。
    そして、大学の傍の介護施設に入所させた。
    後は、施設の人たちに安心して、委ねて任せた。
    寂しい母の為に、話し相手の学生をアルバイトで雇った。
    実は、この母、九州では歌人として第一人者の人だった。
    だから、学生は多くを学び、生き方も変わった。

    介護は、介護する人が、楽しく幸せでなければ、
    介護される人も楽しく幸せでない。
    この信念を貫き、7年間の介護の後に、母をおくった。
    ふりかえっても充実した日々だったそうだ。

    生前母と決めたことが在った。
    「胃ろうは止める」
    「酸素は使う。人工呼吸器は使わない」
    「写真は元気なうちに撮っておく」
    その了解をもらっているので、自然そのままの死を迎えた。
    我が家の父と母もそうだった。
    私には、何も後悔も、思い残すことの無い最期だった。

    そして、地元に祖父が立てた巨大な墓をしまうことにした。
    「墓じまい」だった。
    どうして父もそうだったが、あの年代の人たちは、大きな立派な墓を欲するのか。
    今、遺された家族は、そのお寺との付き合いに経済的に大きな負担を感じている。
    墓なんか、無くてもいいではないか。
    私は、独り樹木葬にする。
    ただ、どこに居るか所在確認のための一枚のプレートだけ置いてもらう。
    永代供養だ。
    家族はそのために一切のお金はいらない。
    その契約をして、お金を払ってから、私は死ぬ。
    何百万円と墓の為に使うことは、自分と家族の幸せになることなのかなぁ。

    ということで、上野さんは一冊の本を上梓した。
    「万葉学者 墓をしまい 母をおくる」だ。
    日本エッセィ大賞を受賞した本だと言う。

    今、死を迎えようとしている比と、死を想っている人は、
    この本を読んだらどうだろうか。
    私も書店で探してみようと思っている。

    とにかく「メメント・モリ」なんだ。
    人は、どういきたら幸せなのか。
    ここに哲学があり、神や仏があるのだと、私は考える。

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