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  • from: クマドンさん

    2020年09月24日 07時33分02秒

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    人は、向かい合っているものになるものだ

    6日間の長いお休みをもらった。
    私はその休日の間に、会いたかった人に会いに行った。
    そして、その人と、語り合った。
    その語りがしたくて、その人へ会いに行った。

    人は。きっと自分が向かい合ったものになる。
    私は、何だかそのことが確かに感じられるようになってきた。
    私は、涼しくなったので、庭に出ている。
    そして、樹を見て、選定をする。
    すると、私は、その樹と対話していることを感ずる。
    私は、樹に語りかけている。
    すると、私は、その樹になる。

    秋が来たら、葉っぱの端が枯れて来る。
    葉っぱがちぢくり、少なくなって行く。
    みんなその変化にただ従うだけだった。
    それに対して、抗うこともなく、ただ、そのまま枯れて行く。
    百日紅はあの紅色の花を散らす。
    ナスも最後の頑張りを見せるが、盛夏の時の力は無かった。

    衰えること。
    それは、当たり前の自然だった。
    だから、私も衰えて行く。
    すると、日々、ここに生かされていることの在り難さだ。
    春が来て、夏が来て、いつの間にかあの猛暑は去って行った。
    庭に出ると、すでに、秋に変化していた。
    つまり、変わらないことは一つもないということだ。

    そして、樹を見る。
    あの猛暑の中でもすくっと元気に立ち続けて来たのは、
    この樹が根を深く深くの水脈まで伸ばしていたからだ。
    では、その根はいつ伸びるのか。
    それは、試練であり、苦難であり、苦しみの中だった。
    そこに追い込まれた時、
    生き抜くために、根は伸びる。網の目のように土の中で縦横無尽だ。
    土の下では、その葉を茂らせる円の面積と同じくらいの面積で、
    その樹の根が伸びているそうだ。
    つまり、逞しく、しんなら強く生きるためには、「根を生やす」ことだ。
    その「根」を、今、ここで忍耐をもって生え茂らす。

    庭の命は、みんな別々個別に生きている。
    それも、独り静かに、淡々と自らを生きている。
    こうやって見渡すとまさに多種多様な世界が顕わだ。
    1つとして同じものはなく、全ては全く異なるものだ。
    同じ種であっても、見た目もその性質も全く異なるものだった。
    つまり、みんな多様の中の1つである。
    自然の命は、みんな独りで生きている。
    だから、私も独りを楽しむ。その生き方が、大事、大事だ。

    しかし、そうやって安心して生かされたままでいられるのは、
    大いなる働きによって、養われ、育てられているからだ。
    その大いなる働きの力は、この樹を見ると明らかだった。
    つまり、そこに全てを委ねているから、何も考えず、安心して生きられる。
    その信頼・信念を、自然はその習性・本能の中に、
    「創造主」から、吹き込まれて生きている。
    だから、そのまま、日々を任せて、委ねて生きる。
    実は、この任せる、委ねる生き方に、人の幸せも託されているのだ。

    自分で何とかできるとは、傲慢な人の考え方だ。
    全てのことは、人を超えて変化している。
    人が思い通りにならないものが、自然の命。
    そして、自然の命である、自分自身の身体もそうだ。
    この身体は、人における自然そのもの。
    つまり、目の前の樹とこの身体とは同じものだ。
    それは、命として有機的に連携をして絶えず働き続ける総体だからだ。
    一つの身体に宇宙はある。
    だから、身体に聴くということは、身体から学ぶということだ。
    この身体は、自然そのもの、創造主の働きそのもの。

    スピリチュアルを想起する。
    本当に一つ一つが個別だったら、そこには何のつながりも関係もないはず。
    しかし、一つ一つ別々に生きられると言うことは、
    お互いが助け合い、支え合い、繋がり合って生きているという証だ。
    この樹か生きているのは、水・光・空気・温度・土だった。
    つまり、そうした生きている環境が整わなければ生きては行けない命だった。
    それでは、酸素はどうか、みんな同じ酸素を吸って生きる。
    生物と植物とは、お互いの呼吸したもので繋がり合って生きている。
    水はどうか、その同じ水を飲むことで、自然の命は全て繋がる。
    お日様の光ほど平等なものはない。みんなに同じ光を与える。
    つまり、この光によって育てられるのが、命だった。
    こうして考えると、私も、その繋がりによって生かされている命の1つだ。

    今朝も朝食を食べるはず。
    それでは、その食事がどれだけの命と繋がってもたらされたものかと考える。
    きっとその広がりは辿れば辿るほど無限な広がりだ。
    全て「宇宙」によって生み出され、養われ、育てられた。
    感謝しているだろうか。
    今、ここ、自分を生きているのは、
    そうした命の繋がりに寄るものだと言う驚きと不思議と自覚があるか。
    その気持ちが、きっと「自然に対する畏敬」なんだ。

    確かに、人は、向き合ったものになる。
    その向き合ったものに、自分自身を同化させることができるからだ。
    その時、私は樹と対話する。
    それは、その樹に対する畏敬の念があるとともに、
    お互い在るスピリチュアルを感ずるからだ。
    スピリチュアルの存在を顕わにするためには、
    創造主である、聖なる創造者がいなければ、
    そのことは実現できないものだった。
    全て創られた命は、その創造主の息吹を吹き込まれたものだからだ。
    魂は、その創造主そのものだ。
    そして、私もこの樹も同じ創造主を父とする。
    つまり、兄弟姉妹でもあるのだった。

    と言うと、人は、この辺りから怪しい話と感ずるようになる。
    目には見えない。
    いると言われても触ることも、手に取ることもできない。
    それを信じろと言われても、その創造主をここに連れて来てくれたら・・・。
    つまり、ここで2つに分かれる。
    私は、それを信じ、命の繋がりの中で生かされている幸せを感ずる。
    しかし、人は、それを全く信じられず、人を見て、人だけを尊重して生きる。

    人は、きっと自分と向き合ったものになる。
    それでは、私は、日々、何と向き合っているかだった。
    だから、庭に出る。
    だから、神に祈る。
    だから、魂と対話する。
    だから、友に会いに行き、その友の魂と対話する。

    それを信じられるかどうかで、
    人生が全く違う。
    今は、ここに居る。そのことの幸せを日々、感ずる。
    「ああ、生きるって、こんなに楽しかったんだな」の実感だ。
    私は、きっと死ぬまでここに生きる。
    しかし、きっと死んでも、ここに生きていることだと信ずる。
    死ぬのは、朽ちるのは、この肉体である身体なのだから。
    そのスピリチュアルな魂は、不死であり、永遠である。
    それを信じられるか、否か。

    ガーデン・キュレーターの小島さんの話。
    「家庭菜園をすることで、自然のリズムに呼吸を合わせられるようになります」

    「思い通りにはならないということを実感します」

    「今、植えた樹は、私が死んだ後の時代まで生きる樹です」

    「いつも目をかけてあげることが大事」

    「結果はすぐに出ないのだから、気長に待つことです」

    彼女は、ガーデニングの植物たちと向かい合って、
    こういう人に、なっている。

    人は、きっと向かい合っているものに、なるものなんだな。

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