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  • from: クマドンさん

    2020年10月15日 07時26分31秒

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    身体の声を聴きながら

    今週から、毎日、6キロ強のウォーキングだった。
    こうなったのも、あの自転車電柱激突事故のおかげさまだ。

    あの事故以来、未だに肋骨の痛みと、膝の痛みだ。
    特に膝は、つくことができない。この痛みはいつ和らぐのかと思っている。
    本当に人の身体は、不思議な力を備えている。
    あれだけの怪我が、今は、完治されようとしている。
    肋骨の痛みは、寝たきりで身体を少し動かすだけで、涙と叫びだった。
    それが、今は、なくなり、
    無理をしなければ平常通りの動きができる。

    私は、今回も改め身体自身の蘇生力を実感した。
    怪我を治すのは、私の理性や思考力ではない。
    たしかに、適切な手当てをするための行動は選択しているが、
    念じたところで、思い願ったところで、命令したところで、
    あの肋骨の激痛は、少なくなることはなかった。
    だから、ただ身体が自力で治癒する力を信じて、マグロにになった。
    そうして自らの身体を実験台にしてみた結果、
    「やはり、身体は、自然に治癒する力をもっている」と明らかになった。

    絶対安静。
    無理をしない。
    それが、治癒する力を助けるために唯一私にできることだった。
    後は、鎮痛剤を飲み続け、痛みのケアをすることと、
    ぐっすりと、すっかりと、頭を空っぽにして眠ることだ。
    これ以外の、余計なことはしない。考えない。
    任せる。委ねる。信ずる。
    これが身体にとっての理想的な怪我人・病人である私の姿だ。

    不思議なんだが、例えば、この肋骨の不具合が起きた時、
    「ここだ」「危険だ」「対処しろ」と、
    警報のサイレンが鳴り響き、激痛がランプのように点滅して止まなくなる。
    そうすると、この統一体である身体は、
    その命を守るために、総動員をかけて、この患部のケアに取り掛かって行く。
    つまり、みんなが自然に生き続けるためには、
    この患部の補修と回復とは必須なこととなるからだった。
    そこで、連携プレーがとられ、お互いができる範囲での支援を行う。

    肋骨が肋骨だけの自助努力をせよとは言わない。
    自己責任だ。何とかしろ。とも、言わない。
    緊急事態であればあるだけ、全ての機能が器官が総動員される。
    全体は、その1によって成り立っている全体である。
    だから、絶対に全体・統一体は、その例え微かであろうが1を疎かにしない。
    かえって、自分のことを忘れてまでも、回復させるために力を尽くす。
    だから、今、ここで、座りながらも肋骨の痛みは感じられない。

    では、膝はどうだろうか。
    やはり統一体としての私の身体は、
    この膝の痛みと怪我をとてもとても心配している。
    しかし、この強打によってできた打撲は、
    強打であっただけに、ダメージは大きかったと予想される。
    折れてはいない。割れてもいない。内出血のように床につくと激痛が続く。
    だからと言って、歩かないことはできない相談だ。
    日常の生活で、全てこの膝のお世話になった動きばかりだ。
    つまり、膝には絶対安静が与えられていない。
    その分、確かに治りには時間がかかるわけだった。

    私は、人間は本来、その命を全うするための治癒力は与えられて生まれて来たと、
    そう信じている。
    私のこれまでの何度かあった「死ぬ、生きる」の実験であったが、
    こうやって私が、今、ここに、生きていることが、
    何よりものその証明だと信じている。
    こうやって身体のことを想うと、
    私と言う意識や意志とは別物の生物体としての身体のことを自覚できる。
    「身体は、身体で生きている」
    その確認だな。

    本当は身体は、生まれてからずっとこの確認を私に求めていたのかもしれない。
    「私は、生きていますよ」
    「私を大事にしてくださいね」
    「無理をしなければ私はそこそこ生きられますよ」
    「ただし、遺伝や突然変異には対処できる範囲は限られていますがね」
    「まぁ、そんなもんです。一緒に生きましょうよ」かな。

    私は、あの長期入院の個室で、激痛に呻き、眠られぬ夜、
    私のこの身体との対話が始まったような気がする。
    私は、激痛から解放されたい。この痛みに今すぐに去って欲しい。
    しかし、私の身体であるはずのことの身体は、
    私の言うことを全くきかない。それどころか、私の思いに反することを続ける。
    「いったいこの身体は、誰なんだ」の「問い」がずっとずっと続いた。

    その内に、身体に話しかけていた。
    何だか、私の気持ちを語りながら、折り合いをつけようと交渉をしていた。
    「今朝の痛みはひどかったな。分かるよ、そうしたかったんだろ」
    「しかしね。悼みに耐える私のことも少しは考えて欲しいんだ」
    「あれだけの痛みの後なんだから、今は鎮まり、眠らせてくれないか」
    「そっちはそっちで大変なことは、よく分かるよ」
    「今が正念場だね。ここで闘ってくれなくては、私の命は終わるんだろ」
    「だから、その闘いはお願いするよ」
    「でもね、この痛みには、もうどれだけ耐えられるか・・・・」
    「心配なんだよ。もう元の身体に戻らないじゃないかと」
    そんな私の語りかけを聴きながら、
    身体は身体としてやるべきことを黙々と続けてくれた。

    それが夜中のベッドの上で身体を折り曲げて、苦痛に耐える、私の内面だった。

    身体は、草であり、花であり、樹であった。
    自然のあるがままの働きで生かされている。
    そこには、何らかの意識も意志も入らない。
    独立独歩。
    確かに、精神としての私とは、かかわりのないものかも。
    膝の痛みは、今もじんじんと感じられる。
    「アブラカダブラ。ちちんぷいぷい」でも、消えない痛み。
    それは、身体からの私に対する自立・独立宣言かもだな。

    しかし、自然の命には、傷んだものを蘇生し、回復するちからは与えられている。
    私は、ただ、それを信じて、日々を、淡々と生きていれば、それでいいんだな。

    しかし、加齢と共に、衰えつつ弱りつつある身体を、
    日々鍛えて、逞しくすることは、私の役割であり、身体に対する恩返しだ。
    食事の栄養と量とを気をつけ、運動を怠らずに筋肉と骨格を鍛える。
    それは、日々を生きていてくれる身体に対する、感謝の気持ちだ。
    だから、ヨガを欠かさず、スクワットも行う。
    そして、その膝のリハビリをかねて、6キロのウォーキングだった。
    入院中はできないことばかりだ。
    食事は最良の栄養とカロリーを考えられた食事が出された。
    しかし、筋力の衰えは、目に見えるほどだった。

    今は、そうやって身体を尊重し、身体と共に生きる生き方をしている。
    そうすることで、身体が喜び、活性化されることも実感だ。
    だから、もっともっと身体と向き合い、
    日々の変化を察知して、無理なく、自然に身体のままに生きられるような、
    そんな生活に、今は、切り替えている最中だ。

    「身体の声を聴く」
    これが健康に生きるための第一の教訓だと私は思っている。

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