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  • from: クマドンさん

    2020年10月26日 07時40分12秒

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    イアソンの本望

    腰の痛みが、まだ続く。
    それまでのようにすぐに前かがみにはなれない。
    かがむ時は、まっすぐに背中を伸ばして垂直に腰を下げる。
    どうしてそれまでは、こんなことをしなくてもしゃがめたのか。
    一体、腰の部分の何が劣化したのかと、考えた。
    こうして、身体は、日々、刻々とした変化だった。
    ということは、何不自由なく生活できる身体の時間とは、
    なかなか希有な、希なことではないだろうか。
    治ったら、刻々と感謝しつつ、歩きたい。家事をしたい。働きたい。

    土曜日の午後、リーデングだった。
    りゅうとの小さな会議室に、椅子が5脚並んでいた。
    「今日は、クマさん、しごかれますよ。覚悟ですよ」と、
    担当の男性に言われた。
    その覚悟は、ここにある。
    「台詞を言う」そんなことを稽古しに来た訳でない。
    「台詞に成る」それができるかどうかの「問い」だった。

    監督のSさんは、実に真摯で、厳しい人だった。
    それぞれに役を振り、その台詞を言わせる。
    それも、自らの口移し、口伝だった。
    Sさんが言う。私が言う。
    また、Sさんが言う。私が言う。
    こんなに親身になって教えを受けたことが私にはあったことか。
    とにかく、その繰り返しの中で、ある変化が起こる。

    台詞に乗るとでもいうのか、台詞だけになるとでも言うのか、
    今、私は、その所をSさんに試されている。
    3年前にギリシャ悲劇のリーデングのワークショップで、
    私はが体験したことだった。
    1日目、私は、台詞に成った。そこに、没入した。快感だった。
    2に目、私は、どこかで私が残った。すると、台詞に成らない。その違和感。
    私は、焦りつつ、不全感を感じつつ、長台詞を最期まで語った。
    しかし、Sさんは、ふっと溜息をついた。
    「残念だね。自分がいましたね。迷いましたね。昨日が、よかった」だな。

    台詞に成りきる快感。それは、あの1日目の私だ。
    その私が自分を遺したまま、台詞を語る嘘っぱち。不全感、いらだち、焦り。
    監督は、瞬時にその私の変化を逃さず、
    空気感が替わってしまったことを、残念に思い、ずばっと私を切った。

    こんなこと、一体、何を言っているのか、分からないと思う。
    私も、そうだったからだ。
    台詞は、私が語るものと思っていた。
    それを、私なりにどう語るかが課題なんだと思い込んでいた。
    しかし、本当は、そうではないのだ。
    台詞が先、私は、いらない。台詞に問われ、私がそれになる。
    「即」「間髪を入れず」「没入」
    その瞬間には、台詞があって、それを受れて語る私があるのではない。
    台詞・私。いや、台詞私のこの一体感なんだな。
    「それを、やってください」との、厳しい指摘だった。

    女性陣はメディアの役を与えられる。
    二人の子どもを殺してイァソンへの復讐に燃える女だ。
    しかし、そのメディアは、なかなかここに顕れて来なかった。
    そこには、Aさんがいた。Bさんがいた。Cさんがいた。
    それは、Aさんであって、残忍な復讐鬼のメディアではなかった。
    それが、理性なのか、性格なのか、思慮分別なのかは、分からない。
    そのままでは、メディアとは一体になれない。共身体にはなれないはずだ。

    では、どうするのか。
    つまり、ここで同じ台詞を何度も何度も言い切る内に、
    忘れて行くのは、そうしたここに生きている自分であり、自分の個性だ。
    「そういう人では全くない人」
    「そういう人に何か絶対になれない人」
    そう思い込んでいるあなたは、本当にその人だけなのかの「問い」だな。

    「あなたの中に、メディアは、いますね」とSさんは、誘いかける。
    すると、台詞に憎しみや怒りの力が乗り移る。
    いや、この台詞にはその憎しみと怒りが既に存在しているのだ。
    そして、その力が、この世に顕れようと滾っていた。唸っていた。
    その時、役者がそこに居る。
    そしたら、その役者にのりうつればいい。
    そして、役者は、そのままのりうつられればそれでいい。
    その、台詞と役者との転換と、即の一体感。
    主客同一のその快感。
    間髪はない。もし、少しでも自分があったら、それが「隙」になる。
    そのほんの小さな「隙」が、すっと弛緩するものを感ずる。
    「残念」と、Sさんは、思う。

    どこまで、いなくなれるか。
    どこまで、イアソンだけになれるか。
    これは、私にとっての大いなる試練だと感じた。

    内田樹著「日本辺境論」にこんなことが書いてあった。

    石火之機とは、間髪をいれずということ。

    自分がいるうちは、それを住地と言う。
    住地は煩悩である。

    不動智は、天下無敵だ。

    私の敵は、私である。

    共身体となる。
    多細胞の個々の細胞となる。

    呼びかけられたら、即答する。

    呼びかけの入力があったら、
    まさにその瞬間に生成したものとしての主体を定義しなおす。

    石火乃機を生成するものが、石火乃機の時間を生きることができる。

    最後のピースなんだ。

    そうすると、跳び込むことが可能となる。

    何を言っているのか、まだまだよくは理解できないが、
    今、私がSさんに問われていることは、ここなのだとは分かっている。

    「「石火乃機」とはそういうことです。「間髪を容れず」に反応できるというのは、
     実は、反応していないからです。自分の前にいる人と一つに融け合い、一つの
     共身体を形成している。その共身体の分属している個々の身体の動きについては、
     もはや入力と出力、刺激と反応という継起的な分節は成り立たない。理屈では
     そういうことになります。」

    「そのときに「敵を作らない」ということと「隙を作らない」ということは同義に
     なります。「万有は共生している」というのは道徳的な訓言ではなく、心と身体
     の使い方についての技術的な指示、とくに時間意識の持ち方についての指示なのです

    「右手と左手を打ち合わせて拍手すとき、共身体から枝分かれしている限り、右手の
     意識と左手の意識が「ずれる」ということはあれえない。そこにまったく同じ律動
     で時間が流れているからです。これが、「石火乃機」、「間髪を容れず」ということ
     です。」

    「主体の概念規定を変えるしかない」

    「呼びかけの入力があったまさにその瞬間に生成したものとして主体を定義し直す。」

    「あたかも、「右衛門」という呼びかけが最後のピースであり、それが「かちり」と
     嵌まった瞬間に、それまで存在しなかった新たな生命体がそこに生気を吹き込まれ
     て出現したかのように。」

    つまり、それがイアソンなんだ。
    さてさて、この課題は、私の人生そのものを変える課題となる気がする。
    あらたな生命体としての私に生気が吹き込まれ、
    そこに出現で来たら、それはイアソンの本望なんだな。

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