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  • from: クマドンさん

    2020年11月30日 09時54分23秒

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    とにかく学ぶだけなんだ

    本日、本当は今頃は伊丹空港までの機内だった。
    まぁ、行かなくて正解だとは思っているが、
    やっぱりキャンセル料6万円は、痛かったなぁ。

    政府によるオレオレ詐欺だ。
    安くなるからどんどんGO TOだ。
    ところが、感染が広がれば、緊急事態宣言一歩手前。
    飲食店も営業時短を求められる。
    きっとキャンセル料を払ったのは、私だけではないはずだ。
    こんな状況の中で、県をまたぐ旅行は、不謹慎だとお叱りを受ける。
    妻の実家の母からは、キャンセル料を出すから行くな。
    こんな状況でもし行ったなら、当分は敷居が高いこと必須だった。
    辞めて正解。
    身体も疲れ果てている。
    6万円払って、家で休養することとした。

    何だか、欲がなくなって来ている。
    あれもこれもとは、思わなくなっている。
    本当は、「もう、いいよ」なのかも知れない。
    いろいろとある。
    現役を退き、今は、次の仕事のための充電期間としている。
    それでも、リーデングに、モツレクに、クラシック・バレーだった。
    新たなものに挑戦はしている。
    それも、高い高いエベレストのような頂だ。
    それを、私は目指しつつ、とぼとぼと麓の登山道を歩き続けている。

    そこには、プロフェショナルな指導者がいた。
    その人たちの前に立つだけで、緊張感が高まる。
    慢心や自己満足は許されない世界だ。
    求められるものを、私が表現できない限り、
    よしとは行かない。
    いつも、その次の高みを指差される。

    しかし、そこを登るのは、私だった。
    だから、ヒントはもらえる。示唆はもらえる。イメージは与えられる。
    「じゃ、やってみましよう」と、やらされる。
    でも、出来ない。
    しかし、どこができていないのかは、私には分からない。
    そこで、立ち止まる。どうしたらいいのか、悩む。苦しむ。
    しかし、「はい」と、繰り返しその台詞を言わせられる。
    どうやっらよいのか、分からないまま、歩かられる。
    しかし、できない。また、やり直す。

    指導者は、こうして私のことを鍛え直す。
    まず、私が勝手に判断している自意識を潰す。
    私が、こうやってやろうと思っている、そのことを否定する。
    ここに、「自分」が出てらアウトだった。
    そこで、止められる。
    そこを、やり直させる。
    それをじっと聴き、それをじっと見つめる。
    指導者の心や魂に響くものになっていない。
    「もう一回」その繰り返しだ。

    習うと言う字の中に、「白」がある意味をやっと分かった。
    習うのは、羽を羽ばたかせる雛たちだ。
    雛たちは巣の上で、親鳥の真似をして羽ばたいてみる。
    どうやって羽ばたいたらよいのか分からない雛たちは、
    この巣を旅立つためには、この羽ばたきを覚えないと生きてはいけない。
    だから、何百回も、何千回も練習する。
    練習の練とは、「練る」ことだ。捏ねることだ。繰り返すことだ。
    本当に自分自身の身になるまでは、繰り返しの連続だった。

    では、白とは何か。
    もし、ここに「自分」が居て、指導者の言葉を素直に聴けなかったとしたら、
    その人は、その人止まりで終わる人だ。
    その人は、その人を超えられない。
    指導者の言葉を批判する。受け入れない。自分なりに解釈する。
    それは、決して白ではない。
    初めっから、その人の色がある。
    そして、この色が芸事を身に着けることの大きな妨げとなる。
    そして、指導者が一番嫌うものが、その色だった。

    そこで、その人をまっさらにするために、
    厳しい指導を続ける。
    これを、「鍛える」と言う。
    これもまた、凄い字だ。
    段々、徐々に、少しずつ進歩させる。
    そして、最期に鋼も「金」になる。
    しかし、倦まず、弛まず、粘り強く、根気強く。
    私は、その指導者の指し示す指を信じて、精進することだった。

    直接の指導場面では、徹底的に真似をする。
    この真似と言う字も、なかなか深い意味のある文字である。
    「真」は、師匠。真打。先生の姿、形、動きと声だ。
    「似」は、習う私。初心の私。だから、ただ真似をする。そっくりになる。
    真似の中には、真がある。
    真がなければ、似ることはできないからだ。
    では、似ているものが、真になるまでにはどうすればよいのか。
    それは、ただ、自分でそのイメージを描きつつ、訓練するばかり。これだけだ。

    芸事は、口伝だ。
    口写しに芸を伝える。
    三味線や小唄の稽古では、師匠が歌い、弟子が歌う。
    その歌の調子を師匠が指摘し、整える。
    師匠の無い芸事は嘘であると、昔から言われているのはこれである。
    そこそこなら、我流・自己流でも行けるところまでは、行ける。
    ところが、高見を目指すならば、そうはいかない。
    その私の表現をちゃんと見て、評価し、修正する目と耳が必要なんだな。

    そして。本物の師匠は、一目でその弟子の本質を見抜くものだ。
    ぐずぐず我がままばかりしている弟子には、百叩きが当たり前。
    そこで、その弟子から我が侭が抜けるまで、鍛える、苛める、痛めつける。
    これって、本当の愛なんだな。
    どれほど自分が師匠から認められ、可愛がられ、愛されているか。
    それを悟れば、百回同じことを繰り返させられても、涙を流せばそれでいい。
    信ずることだ。自分が師匠から、信じられていることを。
    だから、耐えられる。
    怖くもあり、ビビることもあり、迷うことも多い。
    でも、やることだ。やり続けることだ。

    すると、本当にある瞬間に、「出来た」と、悟る。
    そうなんだ、やっと自分の中から「出て来たん」だ。
    そうなんだな。
    出来たのは、出来たのではなくて、出て来たんだ。
    つまり、元々自分の中に蓄えられ、隠れていた力だったのかも知れない。
    出来ない人には、出て来るわけはない。
    つまり、師匠はそれを見破り、見抜き。
    「お前なら・・・・」と、弟子にして、きゅうきゅうと鍛え上げる。

    やっと出て来た。その瞬間の歓びだ。
    その時、私は、私を超えている。
    出て来た私は、古い私を脱皮して、新たな私としてここに立つ。
    その歓びがあるから、舞台に立つ。歌を歌う。舞いを舞う。

    そんなことを、今は、体感しつつ、精進する日々だ。
    キャンセルになった分。
    精進する時間が出来た。
    ここで、やっぱり本気にならなくては、きっと後悔することとなる。
    たかが台詞だ。そんなものに現を抜かしていては・・・とのお叱りもあろう。
    でも、私にとってはこのリーデングとモツレクは、
    機が熟した現れなのだと、そう思っている。

    このことを、本番で達成したら、
    その時、私が味わう大いなる感動は、
    あのエベレストの頂くに立った時の感動に匹敵するものだと思っている。
    エベレストの頂には立てないが、
    その時ときっと同じ感動を、ここで味わえたら、
    いつでも死ねる。そう想う。

    学ぶとは、真似ぶがその語源だ。
    とにかく、自分を無にして、学ぶだけだ。

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