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  • from: クマドンさん

    2020年12月23日 07時30分44秒

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    どのように一日を過ごすか

    定年退職後の生き方について、考えている。
    日々、そのことを実地で学ぶ。
    やっばり身体で学ばないことには、何も分からないと同じことだ。
    人は、想像はできる。
    しかし、想像を現実は超える。裏切る。全く違う。
    現実に起きることは、私のことなど全く眼中になく、
    ただ淡々とあるがままに、時間が過ぎる。

    問題は、その時間の使い方なんだ。
    今朝も3時40分に起床した。眠くて、眠くてであったが、起床した。
    そして、電気ポットでお湯を沸かし、ラジオ深夜便を聴いた。
    それから、FBを1時間書いた。
    これも10月からの私のルーテーンの1つになっている。
    読んでもらうために書いているのであるが、
    本当は自分自身のために、これを書き続けている。
    その後、友にメールを送り、これを書き始める。

    ここまでのルーテーンがあると、
    何をしようかと考える必要はない。
    ただ、自分が決めたことを、決めたようにやることだ。
    そのルーテーンを持っているかどうか。
    そのことで、同じ流れの時間を、どう感じて生活できるかが、変わる。
    「今日は、何をしよう」
    「何もすることが、ないなぁ」では、ちょっと寂しい。
    きっと人は、何もしなくても、
    どこかで「意味」を求めているのではないだろうか。

    次に、自分のことは自分でやる生活だ。
    朝食と昼食は、自分で造る。
    そのことも、ルーテーンの1つとする。
    例え、自分だけのためと言え、家事は、私に達成感を感じさせる。
    つまり、家事をすることで、働く欲求を少し満たせるということだ。
    だから、家事を一切やらないで家に居る定年族は、
    何ともたっぷりある暇な時間を持て余すことだろう。

    身体をとにかく動かすことから始めることだ。
    テレビはつけない。テレビをつけると、その前から動かなくなる。
    番組を創っている側の意図は、それだった。
    最期まで釘付けにする。途中、膨大なCMを観させる。
    その内に、それを観ないと気が済まなくなり、
    番組依存が始まる。だんだん、テレビ視聴の時間が増える。
    観終わった後、何だか虚しさを感じて、夕方を迎える。
    だから、番組は録画する。後で、CMをかっとばして短時間で観る。

    私は、息詰まると、身体を動かす。
    ヨガを始める。庭に出て花の世話をする。部屋を片付ける。
    そうやって何かに集中して取り組んでいると、時間を忘れる。
    いくら時間をかけても、いいと思う。
    この一つだけでも、やり終える。やり遂げることに満足がある。
    「今日は、あれをやれた」それだけで、いい。
    その時間の「意味」を自分でつけてやる。

    ゆっくり、のんびり、おだやかに。
    そうやって時間を過ごすことを、「無駄」だとは考えない。
    今、そうやっていても「何もしていない」とも考えない。
    今は、お日様に当たっている。今は、花の色を観ている。
    今は、ぼっとしながら、考えている。瞑想している。
    そうした時間の味わいを、味わえるようににると、
    何もしていないようなその時間を、すっきりと過ごされる。

    話をすることも大事なことだ。
    ほんのささいな日常会話でもいい。
    外に出て、ご近所の人と挨拶するだけでもいい。
    また、私はSさんに電話して、お互いに心を開いて対話することを、
    とてもとても喜びに感じている。
    自分の思っていることを、言う。
    自分が感じたり、気付いたことを、相手の人と共感する。共有する。
    このことにも「意味」を深く深く感じている。

    新しいことを一つやる。
    そうなんだな、「いつかやってみよう」と思っていることがあったら、
    その日、一つだけやってみる。
    すると、これも予想外の気付きと発見と出会うことがある。
    私には、いつか入りたいカフェがあった。
    昔からの知り合いの女性が開店した店だった。
    いつか、いつかと思いつつも、その勇気がこれまでなかったようだ。
    昨日、散歩の途中で雨になりそうだった。
    「そうだ、あのカフェで雨宿りしよう」
    そして、入ったら、大歓迎で迎えられた。
    ここにも、昼間の私の一つの居場所ができたようだ。

    それから、時々、空を見る。
    今も、日の出前の薄青い空の色と、オレンジに煙が輝いている。
    この景色を観ていると、時間を忘れる。
    その景色に浸る。何かを感ずる。物思いにふける。
    これも大事な時間の使い方だった。
    庭に出て、ただ花たちを見て佇んでいるだけでもいい。
    その時も、やはり自分を忘れ、時間を忘れる。
    だから、自然は在り難いものなんだと思う。

    実は、こうして何かを書いていることにも、
    私にとっての貴重な時間の使い方でもあった。
    書くことは、確かに現すことである。
    言葉にすることで、この私の考えや気付き・発見が、
    読む人と共有される。
    しかし、そのためだけでなく、やっぱり私は、私のためにこれを書く。
    書くことで、時間を忘れる。何かにただただ集中する。
    その気持ちよさがあるから、これを書いているのかも知れない。

    膨大な暇な時間を与えられている。
    何かが向こうからは、やっては来ない。
    この時間をどのようにして味わい、楽しんで1日を終えるのか。
    そんな難しく考えることではない。
    「何もしない」「何もやらない」「ほーっとする」
    それも自己決定の1つだと考える。
    つまり、時間にただ流されることに、
    私は、「意味」を見出さない。
    そまの時間をどう使うかを、自己決定・自己選択するところに、
    何だか生活する「意味」と「楽しさ」があるような気がする。

    この自宅でずっと1日過ごす。
    その中に自分なりの「意味」と「楽しさ」とを味わうことができれば、
    それは、私にとって「善い1日」であると、言える。

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