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親父たちよ

親父たちよ>掲示板

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  • from: クマドンさん

    2014年12月31日 14時05分40秒

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    天地独り

    久しぶりにここに書いている。今日が2014年の最後の日となった。こんなにも人生は変わるものかと、吾ながら思っている。人は、先のことも、自分のことも分か

    久しぶりにここに書いている。
    今日が2014年の最後の日となった。
    こんなにも人生は変わるものかと、吾ながら思っている。
    人は、先のことも、自分のことも分からないまま生きている。
    そのことが、実感として受け入れられた。

    生きるとは、何だろう。
    友から「空言葉」は言わないほうがよいと忠告された。
    自分では分かってはいないのに、
    分かったように言う言葉が「空言葉」だった。
    こんなにもちっぽけで、愚かで、無力て、何もできない自分に気付いたら、
    本当に何も語ることができなくなった。

    だから、言葉を体で感じられるまで、黙っていた。
    いや、本当に語れなかった。話せなかったんだ。

    突然、孤独に襲われ、虚しさに立たされた。
    自分がやってきたあれこれが、
    とてもとても重く、取り返しのつかないような気がした。
    いろいろな人に話を聴いてもらった。
    そして、分かったことは、やっぱり私と言うちっぽけな存在だった。

    何だか何かをやっているつもりでいたのに、
    実は、そうやって突っ走っている間に、
    大事なものを見ていなかったことがよく分かった。
    大切なものを失いながら、それにすら気づいていない愚かさだった。

    気付いた時にはすでに時は遅く、
    修復は不可能な状況になっている。
    そのことを自分が分かるまでも、どんだけ時間が必要だったか。

    失ってしまったものの重さに、苦しみ耐えている。
    今日、大雪になるはずの新潟市が、
    曇り空で雪もちっとも降ってはむいなかった。
    何週間ぶりに走ることにした。
    いつもの松林のコースを走りながら、
    これからもこうして独りなんだなぁとつくづくと感じた。

    そしたら、「天地独り」という言葉が浮かんできた。
    そうだなぁ。しょせん全てのいのちは、天地独りなんだなぁ。
    そう思って走っていたら、ほんの少しだけ勇気が湧いて来た。

    だから、もう一度自分を見つめるために、ここに言葉を書いている。
    生きる意味は、必ずあるはずだ。
    そう信じて、そう自分に言い聞かせる大晦日だ。

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    waka

    from: wakaさん

    2015年01月05日 11時15分08秒

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    熱い「よそ者」「ばか者」がついていますよ。2/14の春節祭、いかがでしょうか?

  • from: クマドンさん

    2014年12月01日 06時00分05秒

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    問い

    生きることの物語。生きているということは、その物語を日々作ること。振り返ってみたら、やっぱりそこには生きて来た意味がある。いかに生きるかの問いは、いの

    生きることの物語。
    生きているということは、その物語を日々作ること。
    振り返ってみたら、やっぱりそこには生きて来た意味がある。
    いかに生きるかの問いは、いのちからいつも私に問われている問いである。
    その問いに対して、日々正しく生き、使命感をもって生き、
    具体的な責任を担って生きる。
    その日々の積み重ねが、物語を紡ぐ生き方だ。

    山に登らない人でなく、山に登る人だった。
    そのおかげで、25年間の「山賊会」の仲間だった。
    日本各地の山に登り、飯豊に憧れ、地元の山に登り続けた。
    それは、それぞれの人生の物語でもあった。
    そこから、多くを学んだ。
    そして、出会った人たちから、多くを学んだ。
    ありがたいことだった。
    「山に登ってよかった」と、想いながら帰って来た。

    父の病室に行くと、父は静かに眠っていた。
    暫くすると目を開けた。
    それから、看護士さんが食事だと呼びに来てくれた。
    車いすに父を乗せて、テーブルに向かった。
    その横に私は座って、スプーンをもって父にお粥を食べさせた。
    ほんの少し口にしただけで、父は首を横に振った。

    魚やおひたしをわずかに食べて、食事は終わった。
    ベッドに帰ってから、父が暴れ出した。
    自分が起きたいのだが、思うように体は動かず、自由にならないからだった。

    父が語る言葉の半分も理解できない私に対しても父は怒っていた。
    起き上がると危ないから寝かせようとすると、
    腕を払いのけて、私を怒鳴って、にらみつける。
    「帰れ」と、言われ、何だか、長生きする意味を考えてしまった。
    ここに座っているのは、父であるが、父ではない。
    私は、長生きすることの意味が分からなくなってしまった。

    そんな父を独り残して、私は帰って来た。
    昨日は、とてもとても心が空しく、独りぼっちで、死にたいくらいだった。

    老いは必ずやって来る。
    独りで老いていくのは、私だけではないはずだ。
    山賊の仲間たちも、老いの中だった。
    いつのまにかそんなに年を取ってしまった。
    父もそうだ。年なんて誰も取りたくもないだろう。
    ただし、自然そのもである人間である私たちは、やっぱり老いて、死んでいくのだ。

    その老いと向き合い、その孤独と向き合い、耐えて生きることが、
    私と父と山賊たちとのいのちからの問いのような気がする。
    いのちは、父にも問うている。
    父の意識はおぼろげであろうとも、父もその問いに応えなければならない。

    例え、いかに孤独で、空しくあろうとも、
    その物語の舞台から、降りることはできないのだった。
    だから、それを引き受け、その問いを問いとして持ちつつ、
    今日を一日生きるしか、生きる道はないのだと、諦めている。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時43分29秒

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    いい仲間といると安らげますね

  • from: クマドンさん

    2014年12月06日 21時25分30秒

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    山小屋は梁山泊だ

    新潟市も大雪だった。悲惨な日々が私には続いていた。金曜日、とにかく奥歯が歯槽膿漏で痛み、噛むことも涙だった。前歯だけではやっぱり食事はできないものだっ

    新潟市も大雪だった。
    悲惨な日々が私には続いていた。
    金曜日、とにかく奥歯が歯槽膿漏で痛み、噛むことも涙だった。
    前歯だけではやっぱり食事はできないものだった。
    涙を堪えて昼飯を食べた。
    噛めることのありがたさをつくづくと感じた。

    あまりの痛みに堪え切れずに、歯医者にSOSだった。
    とにかく急患として入れもらったことはありがたかった。
    「痛んでからでは、手遅れですよ」とは、深い言葉だった。
    何事も痛みを感じていない日々の予防が必要なんだ。
    それを怠り、大丈夫だとたかをくくっていると、本当に痛い目をみてしまう。

    それから、新潟駅前で飲み会だった。
    飲む前に水をもらって抗生物質と頓服を飲んだ。
    何年振りだろう、彼が東京から帰って来たのだ。
    怪物のような彼の帰還を祝って、堀川さんと山小屋だった。

    するとそこに、これも何年振りだろうか、山の仲間Mさんがやって来た。
    何という必然だろうか。
    何年振りかの2人の友との再会を、この奥歯が疼く夜に果たすことができた。
    これでから、人生とは分からないものだった。
    彼は、職場の若者二人の見合いを設定して、ここに連れてきたのだった。
    男性は四十歳手前、これが信州の山男で、いい男なのだ。
    女性は二十代前半。彼と俺の娘の世代だった。
    結局、最後には、私が彼らの席に移って、人生と恋愛とを語っていた。

    奥歯が痛くて、痛くて、焼き鳥すらも噛むことができなかった夜なのに、
    何で私がここで、初対面の2人のために、恋愛論をぶっているのか。
    いつもいつも呆れるぐらい馬鹿な男だと、つくづく想った。

    外に出たら、道路は雪で真っ白だった。
    実は、手持ちの金が乏しかった。
    最近は、いつもそうだった。
    だから、歩いて帰ることにはているのに、
    通勤靴では、何度も何度も滑って転びそうになってしまった。
    これでは、また医療費がばかにならないと諦めて、タクシーに乗った。

    雪の新潟市。車が極端に少なかった。
    みなこのゲリラ大雪にタイヤを替えていないことを悔やんだ夜だったようだ。
    シュトルムウンドラング。疾風怒濤の青春だったなぁ。
    その時の残党たちと、梁山泊である山小屋で再会だった。

    好き勝手に暴れていてよかった。
    今は、そのおかげさまでこうして独りぼっちだけれでも、
    その時に苦楽を共にした仲間とは、こうして会うとまったく昔のままだった。
    だから、やっぱり何かをやる機会があったら、迷わずにやってしまうことだ。
    その渦中では分からないが、何年か経つとその意味がきっと分かる日が来るはずだ。

    その出会いが、私を育ててくれた。
    本当にどっぷりと酔っぱらいながら、好き勝手を語っていた。
    それなのに、ちゃんとその語りを聴いてくれる、かっての仲間たちだった。
    酒と焼酎と語りのせいで、いつしかあれだけ疼いていた痛みも、
    どこかに行ってしまったようだった。

    馬鹿は、いつまでも治らないものだ。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時41分25秒

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    途中の会、そこで?

  • from: クマドンさん

    2014年12月06日 22時08分32秒

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    靴が無い

    靴が無い。傘がないは、井上陽水だ。今朝、8時過ぎに目覚めてしまった。休日前にしこたまのんでしまうと、翌日は一日何もできずに終わってしまう。昨夜は帰って

    靴が無い。
    傘がないは、井上陽水だ。
    今朝、8時過ぎに目覚めてしまった。
    休日前にしこたまのんでしまうと、翌日は一日何もできずに終わってしまう。
    昨夜は帰ってきてから腹が減ったらしく、カレーうどんを食べていた。
    酒のおかげで、奥歯の痛みも麻痺していたようだ。

    ところが起きたから大雪なのだ。
    この時期にこんな大雪が降るものだろうか。
    30センチは積もっていた。
    何といことだ。靴が無いのだ。
    この脛までくる深い雪に、私には通勤靴と運動靴だけだった。
    靴が無い。

    最近、良寛さんのことを想うことが多くなった。
    それは、私の年に良寛さんは五合庵で独り暮らしをしていたからだ。
    その頃は、土間にもみ殻を撒き、その上に蓆をしいて寝ていたそうだ。
    どんなにかこの雪の夜には凍えたことだろうかと、
    何とも侘しい気持ちになってしまった。

    雪になると、良寛さんは托鉢にも行けなかった。
    かといって訪ねてくれる人もなく、
    寒さに耐えてきっと布団にくるまっていたことだろう。
    そんな孤独を雪がいっそう深めたのだはないだろうか。

    私もどこにも出ることができなかった。
    だから、諦めた。ここに居よう。ここで生きようと。
    食べるものは、あるものだけで何とかしよう。
    とにかく、奥歯の痛みが続くので、固いものは食べられなかった。
    ネギが固くて、噛むと痛みで涙が出そうだったのには驚いた。

    寒いから、午前中は暖房の節約のために、布団の中で本を読んだ。
    外で雪のけをしようにも、長靴がないために、一歩も出られない状況だった。
    最近は、だから、諦めることを覚えた。
    何でこんなことがとは、言わないことにした。
    人生とは、何でも予想外のことが起こりうる道場なんだ。

    良寛さんならどうするんかなぁ。
    それが、私のある意味では行動の指針となっている。
    靴が無い。外は大雪だ。一歩も出られない。ならば、どうするか。
    それは、決まっていることだった。
    ここに居よう。

    ここに居ることの決意は、大事なことだとふっと感じた。
    あっちでもにく、そっちでもない。
    「ここに居よう」ということが、深く沈むということなんだ。
    せっかくの休日なのに・・・とは、思う必要はない。
    こんなことも人生には起こるのだと、言い聞かせればいいんだ。

    そしたら、午後になって堀川さんが近くに来るからと、
    私の長靴を届けてくれるとのメールがあった。
    とうとう私も良寛さんのように、
    人の施しと善意によって生かされる人となったようだ。
    堀川さんは、タクシーでやってきた。
    彼女は踊りを観るついでだった。
    私は、通勤靴で雪の中を歩いて、彼女の到着を待つために、
    踊りの会場に歩いてでかけた。

    その時、この世の中がすごいことになっていることを初めて知った。
    こんなに長靴がありがたかった日も人生にはなかったなぁ。

    堀川さん、感謝、感謝、感謝です。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時40分32秒

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    堀川さん、スーパー役者!

  • from: クマドンさん

    2014年12月11日 06時06分53秒

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    魔法の言葉たち

    昨日、どうもいろいなことがうまく回らなくなった。今もそうだ。パソコンの動きが緩慢で、すぐに反応してくれなくなった。「ああ、また赤信号か。」「どうしてこ

    昨日、どうもいろいなことがうまく回らなくなった。
    今もそうだ。パソコンの動きが緩慢で、すぐに反応してくれなくなった。
    「ああ、また赤信号か。」
    「どうしてここにバスが割り込んで来るんだ。」
    「近道をしようとしてのに、遠回りになってしまった。」

    一つ一つは私の選択と決定なのだから、
    それは私自身の責任でもある。
    なのにやはり、少しずつイライラとして、腹が立ってくる。
    「そうなるだろうなぁ・・・」と予想した悪い結果ばかりが続いた。

    しかし、例えそうでぁったとしても、本当は何事もない状況なんだ。
    ごくごく当たり前のあるがままの車の流れだ。
    私は目的地に着くことを少し急いでいたのかもしれない。
    一つ一つのストレスに、ちょっとこだわり過ぎていたのかもしれない。
    他の人なら何でもないことなのに、それを私が勝手にストレスに変えていた。

    こんな時こそ、魔法の言葉だった。

    「大丈夫。大丈夫。」

    「問題ない、問題ない。」

    「まぁいいっか、まぁいいっか。」

    短気ですぐに感情的になってしまう私が、最近心穏やかでいられるのは、
    この魔法の言葉のおかげだった。
    同じ状況に立たされても、感情的になる場合と冷静でいられる場合とがある。
    私は、私なぞどこにも居ないのだから、
    居ないはずの私がイライラするのはおかしいではないかと考えるようにしている。

    もう一つは、しょせん私のようなちっぽけな男なんだから、
    人からそう思われたり、馬鹿にされてたりすることは、当たり前なんだと、
    自分で自分に語り掛けていることだった。
    この交通の状況と、かかわっている人の気持ちとは変えられないものだからだ。

    私に変えられないものに対しては、ただ黙って従うことだ。
    それでも、堪忍袋の尾が切れそうだったら、
    この魔法の言葉を言い聞かせ、その場から私を消してしまうことだった。

    決して、言い訳も反論もしない。
    ただ黙って従うのみだ。
    「どうしてこうなっているんだ」とは、言っても無駄なこと。

    人生、そんなことばかりで満ちている。
    だから、今、ここでパソコンの動作が緩慢であっても、
    暫くじっと待つことだった。
    すると、こうしてサクサクと動作するパソコンに変身してくれるのだから。

    そう想うと、少しは大人になった気がする今朝だった。

    父は、どうしているだろうか・・・・。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時39分32秒

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    待っていますよ!

  • from: クマドンさん

    2014年12月09日 05時56分11秒

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    父の行き場所・父の生き場所

    昨夜は父の病院で病状説明と、今後のケアについての医師からの説明があった。私が夕食を食べさせようと待っていると、父が眠ったまま車いすで運ばれてきた。違う

    昨夜は父の病院で病状説明と、今後のケアについての医師からの説明があった。
    私が夕食を食べさせようと待っていると、父が眠ったまま車いすで運ばれてきた。
    違う場所で食事を済ませたそうだ。
    やっぱり車いすにはシートベルトで縛られたままだった。
    父は、認知症が進んでいた。
    それは、入院した10日前と比較することでよく分かる。
    父の眼差しからは、父の意志や想いが感じられなくなっているからだ。

    先日、突然立ち上がって転倒をした。
    その時、頭を打ったのでCTで検査したそうだ。
    すると既に脳自体の委縮が進んでいることも分かった。
    病院での看護では、刺激もなく話すこともなくで、
    老人は認知症の症状が進行する。

    腎臓の機能は、15%まで落ちていた。
    本来ならば人口透析のレベルなのだが、それはあえて選択しないことにした。
    このまま経過観察を続け、本人の体力次第ということも分かっている。
    枯れていくのをどこで看取るかだった。
    自立型の父が入っていた施設には戻ることはできなかった。
    昨夜、ケアマネージャーの人が来てくれたので、
    契約を打ち切り、退会することを彼女には告げた。

    それでは、父の行き場所はどこなのか。
    この病院内にある医療型の病棟のベットはには空きがなかった。
    何よりもそのベットの空きを6名の患者さんが待っているとのこと。
    「Sさんは、7名目になりますが・・・。」
    それでは、同じく腎臓のケアができるH病院の空きを調べてみます、
    ということとなった。

    「もし、そこに空きが無かったらどうなりますか・・・。」
    自宅での介護は全く無理なことは、分かっていた。
    例え、仕事を辞めたとしても、看護の切なさ苦しさは、予想されていた。
    行き場所がないということは、生き場所がないということだ。
    それは、あまりにも父には可哀想なことだった。
    しかし、その本人は、認知症によって現実を理解することができなくなっている。
    妹を妻だと想って、その名を呼んだという。

    母もそうだったが、認知症になることで、
    父は、父として生きられなくなったかもしれないが、
    父には、死にゆく者の、分かれ逝く者の、孤独や苦悩や恐怖が感じられないのだ。
    私たちには、その間に覚悟する時間を与えてもらえるのだった。
    医師の説明を聞きながら、家族が同じ思いで理解したことは、
    別れはそんなに遠い日ではないな、という厳粛な事実だった。

    帰る時に、車いすに座ってぼーっとしている父に挨拶をした。
    父は、私を見上げても、私が誰だか分からないようだった。
    「帰るからね。また来るよ。」
    以前ならば、手を挙げて、「ありがと」と、言ってくれたものだった。
    「いい子にしてんよ。迷惑かけたらだめらよ」と言っても、反応はなかった。

    父は、生き場所が見つかるまでは、ここが父の生き場所になった。
    ここにおいてもらえることだけでも、ありがたいことだった。
    これが、老いと病の現実だった。
    父は、何を考え、何を想って、今日を生きることだろう。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時38分48秒

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    きっと気持ちは通じていますよ

  • from: クマドンさん

    2014年12月08日 06時02分09秒

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    孤として生きる

    日々、淡々とあるがままの生活を続けている。やらねばならないことが、なくなっている。休日の予定が皆無な日だ。以前ならあれもこれもスケジュールがあったのだ

    日々、淡々とあるがままの生活を続けている。
    やらねばならないことが、なくなっている。
    休日の予定が皆無な日だ。
    以前ならあれもこれもスケジュールがあったのだが、
    今は、エアーポケットのようなものだ。

    自分に向き合っている。
    自分と対話している。
    その分、そうした時間ができるようになった。
    それから、本を読み、映画を観る時間も増えている。

    「トニー滝谷」という映画を観た。
    人は、その人としてしか生きられない。
    人は、その人としての自分を好きになり、その人らしく生きるしかない。
    自分はやっぱりそうなのだから、そうなる自分を好きになる。
    人とは比べる必要もなく、人とは違うことが当たり前な自分でいい。

    それは、とても孤独なる存在としての自分である。
    しかし、そこに友が5人居たとしても、やっぱり孤独は同じではないだろうか。
    人は、人とは深く繋がれる。
    それはよく分かる。
    深く、ある人が言っている「生なる自身」にまで深く行くと、
    自分と人との隔たりが消えてしまう。
    その悲しみも、その弱さも、その孤独も同じなんだ。

    だから、そこで繋がれる人とだけは、生きられるのだと、私は想った。

    その孤なる自分の、孤なる意味を悟ることだ。

    弧であることの許しであり、
    そのことはこの世に生を与えてくれた天の眼差しだった。
    その意味においては、孤である人は一人も存在しないことになる。
    天とは、大いなる意志とは、繋がっているのだから。

    だから、人は、その人が歩くべき道を歩くことだ。
    そんなふうに自分に言い聞かせながら、生きている。

    個性的であるということは、やっぱり孤生的であることだった。
    しかし、その孤は、けっして孤ではない。
    それを信じなくては、あまりに寂しすぎて人は生きてはいけないと、私は想う。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時37分43秒

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    個性的であるということは、やっぱり孤生的であることだった・・・そうかも・・・。

  • from: クマドンさん

    2014年12月10日 05時55分46秒

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    生き場所がないよ

    認知症の家族を自宅で介護している人たちには頭が下がる思いがする。認知症とは、並大抵の忍耐ではなかなか対応できない病気だと感じている。病院に行ったら、や

    認知症の家族を自宅で介護している人たちには頭が下がる思いがする。
    認知症とは、並大抵の忍耐ではなかなか対応できない病気だと感じている。

    病院に行ったら、やっぱり父は車いすにシートベルトだった。
    眠っていた。声をかけても反応はなかった。
    ケアマネージャーの女性に言われた。
    「H病院では、認知症が進み、病状の悪化している人は、入院をお断りする」
    とのことだった。
    つまり、父は、生き場所を失ってしまったのだった。
    可哀想なことだ。

    その次の候補として、認知症専門のM病院に問い合わせてみると、
    彼女は言ってくれた。
    病院でも、父のことを厄介に思っていることはよく分かる。
    たまたま腎不全での入院だったからここ居るが、
    本来ならば一般病棟に居る患者ではないからだ。
    看護士さんたちには、実務以外の重い苦労を強いることになっている。

    それは、空気で分かる。
    父は、怒鳴るし、ほんの少し尿意を感じると、すぐに看護士さんたちを呼ぶ。
    「おーい、ねぇさん。ねぇさーん」
    そして、すぐに対応してもらえないと、自分で車いすの下に足を付き、
    両手を手すりにかけて立ち上がろうとする。
    それが24時間いつもだった。
    しかし、父は何も分からない。

    昨日、父は、私が誰だかも分からない様子だった。
    食事も二口三口お粥と魚のかけらを食べて終わりだった。
    点滴をしていないから、父のいのちの維持は口からの食事だけなのに・・・・。
    それ以上スプーンで食べさせようとすると、強く拒否をする。
    中年男が背広とネクタイ姿で、認知症の父の食事の介護だった。
    私は、心穏やかに、怒らないことを自分で決めた。
    感情をコントロールしながら、父と接したいためだ。

    我儘のし放題。傍若無人な振る舞い。人の心を傷つける数々の言動・暴言。
    さて、そうされたままにこにこと耐えていられるのも、
    実は、この限られた時間だからだ。
    もし、これが24時間、毎日続いたとしたら、
    例えそれが父であろうとも、どうなるかは私自身分からない。
    そんな危険と脆さとを父を介護しながら感じている。

    自宅で認知症の家族を介護している人たちの苦労とは、
    それはそれは並大抵ではない人間修業なのだと思う。
    看護士さんは、慈愛の心で、確かに父には優しく接してくれている。
    ただただ頭が下がり、感謝しか言葉はなかった。
    しかし、それは父が他人だからできることだった。
    もし、自分の家族だったら、もし、自宅での介護だったら、
    いったいどうなのだろうと、辛いものを感じてしまう。

    私がこうして生活できるのは、父が病院の車いすで眠ってくれているからだった。
    その父を、少ない人手の中で、親身になって看護してくれる看護士の人が、
    いてくれるから、今は平静な気持ちで生活できるのだ。

    次の父の生き場所が、一日も早く見つかってほしいものだ。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時36分51秒

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    一緒の時間を大切に・・・

  • from: クマドンさん

    2014年12月12日 06時05分23秒

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    途中の会は、考える冒険者だ

    そんなこんなが多くて、何ともどう生きて行ったらよいのか分からなくなってしまうこともある。あれもこれもと考えると、途方に暮れたりする。しかし、悩まないこ

    そんなこんなが多くて、
    何ともどう生きて行ったらよいのか分からなくなってしまうこともある。
    あれもこれもと考えると、途方に暮れたりする。
    しかし、悩まないことだ。悩まないで考えなさい。
    池田晶子さんの本を毎朝読んで教えられている。

    「君が真理なんだ。しっかりと思い出すために、しっかり感じ、考えるんだ。」
    「14歳からの哲学」の最後にそう書かれてあった。
    この本は不思議な本で、読んでいる間は分かっているつもりになるが、
    本を閉じると、読まなかったかのように全てを忘れてしまう本だった。

    生きることに答えはない。
    その答えを探し求める冒険が生きるということであり、問うということだ。
    私は、その答えを求めているが、答えはこれだと言って表せるものではないんだ。
    では、何も答えはないかと言うとそうではなかった。
    答えは、ここに、この私にあると、彼女は私を指さして教えてくれる。

    存在するもの全てが、在るということは、不思議なものだ。
    その不思議なものの中の1つが「私」だった。
    だから、私はその不思議さにおいて、
    雲や、風や、空や、海や、森や、川や、生きとし生けるいのちや、宇宙や、
    そのさまざまな存在と同じいのちが私だった。

    何だか言葉が遠いような気がするが、
    その一つである私は、既に私がこの世に生まれる前からの私であり、
    私がこの世を去った後の私でもある。
    その私は、いつまでも永遠に消えない私であり、連続する私である。

    そして、それは絶対的に個であるが、そのままで全部である私でもある。
    「絶対矛盾的自己同一」なままで、私は私のままを生きればいい。

    しかし、現実の私は、さまざまなる悩みに追い込まれ、
    そのちっぽけな悩める存在としての私で生きるばかりだった。
    その渦中にあることで、どうどうめぐりの迷いは生まれる。
    本当は全てのことを忘れ、全てのことを捨てて、
    「謎」と自覚して、大きな私のことを信じて進めばいいだけなんだ。

    小さな私が勝手に悩んで、大きな私の存在を忘れさせてしまっているんだ。
    ところが、この大きな私はお日様や月のように、
    私がその存在すら忘れていても、けっして無くなりはしない。
    そして、それと同じものである大きな私も、
    私の中に、いや、私の周りに、私の傍らに、いつも居る存在なんだ。

    その私が、私を見ている。
    その私が、私に語り掛けている。
    その私が、私を好きだと言ってくれている。
    孤独の中で対話していた相手とは、その大きな私だった。
    と言うか、大きな私の方が小さな私を孤独にして、
    私の心に微かな細やかな声で呼びかけてくれたんだ。

    この私を見る、「私」
    この私に語り掛けてくる、「私」
    それは、私である「主人公」であり、「真面目」な「私」だった。

    こんな風に、考えれば考えるほど、どこに行くのか分からない旅となる。

    それは、私探しの旅でもあった。

    「考える人生をあえて選ぶなら、君は冒険者だ。」
    「永遠の謎に挑む冒険者になるんだ。」
    池田晶子さんは、中学生にそう語っている。
      

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時35分12秒

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    池田さんを新潟にお呼びしましょう

  • from: クマドンさん

    2014年12月13日 09時43分00秒

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    ぶらさないことへの修練

    またまた、朝からの大雪だ。ずんずんと降り積もる。それもも湿った重たい雪だ。朝から二回の雪のけをした。これをやると体がほかほかと温まる。そして、ひじや肩

    またまた、朝からの大雪だ。
    ずんずんと降り積もる。それもも湿った重たい雪だ。
    朝から二回の雪のけをした。
    これをやると体がほかほかと温まる。
    そして、ひじや肩や腰が痛くなる。
    そんな時節が来てしまったのだ。

    午後からは長岡だった。
    そのために午前中には何も予定は入っていない。
    だから、さっきも表に出ての雪のけだった。
    この作業、ぴしりっと決まってきれいになると、とても気持ちいいものだった。
    きれいな雪のけを私は心がけ、どこから初めて、どこに雪を積むか、
    絶えず状況を判断しながら、適切に仕事をすすめていく。

    人が通る場所は、やっぱりそこに住む人の責任だろうと、
    家の前の雪のけとは、それだけでお互いさまの気持ちの表れだった。
    適度なお年寄りが住む家は、昔かたぎにびしっとのけられてある。
    独り暮らしのお年寄りの家は、足跡一つなくまっさらなものだった。
    早朝ガレージの前の雪のけを終わっている家は、
    きっと休日なのに仕事なのだろうと思ってしまう。

    一昨日、本日の大雪を想定して、Kにグッズ一式を買いに行ったら、
    在庫の品だけで、選べるゆとりもないありさまだった。
    スコップ、スノーダンプ、これが細々と置かれていた。
    アルミのスコップは、在庫が無くて、いつメーカーから入るか分からないそうだ。
    このいつもとは違う突然の大雪に、驚き慌てた人たちがきっと多いことだろう。
    「どうしてこんな大雪になるんだ。」
    と、疑問に思ったとしても、それがいかに科学的に証明されたとしても、
    これが、「自然のあるがままなんだ」と思うだけだ。

    テニス肘の痛みがまだまだ続いている。
    それなのに重たい雪をスコップに乗せて、放り投げている。
    「なんでこんなに肘が痛むのに」と、嘆いたところで雪が消えるわけではなし。
    そうならばと、雪の救い方や投げ方を工夫して、
    負担のかからないように知恵を使った。
    そのおかげで、実は炎症が改善されたと、昨日医師に言ったら、大笑いだった。
    「雪のけで整形に来る人は居るけど、雪のけで治ってしまう人がいるとは・・・」
    悪いこともあれば、いいこともあるんだ。

    目先のことで感情をぶらし、かっとなったり、腹を立てたりすることが多かった。
    おかげで、短気で喧嘩早いと人から思われているクマでもある。
    しかし、そんなクマも自分ではどうにもならないことばかりが世の中なのだと、
    ふっと酷い酷い状況の中でこれでもかこれでもかと追い込まれている内に、
    そのことに気付いていない愚かさにおくばせながら悟ったのだ。

    これは、突然大雪が降ること、追い込まれ批難されることと、同じなんだ。
    それは、私にはかかわりあいのないことだ。
    降る雪に腹を立てず、理不尽でわがままな人に腹を立てず。
    それは、私が同じ心境で居たら、何も変わらず平穏に過ごせることなんだ。
    雪が降ったり、ああ雪が降ったなと、思えばいい。
    またかと嫌な想いになりそうだったら、ああ仕方ないなぁと諦める。

    そんな簡単なことが分からなかったために、
    どんだけあっちこっちの壁に猪突猛進して、自爆したことだろう。
    今は、自爆したら私の負けなのだと思い、
    いかにして感情をぶらさないかの修練を積んでいる。

    雪のけの跡を見ている私が居る。
    その私を見ている私が居る。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年12月29日 12時34分07秒

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    新潟市は、まだいいですよ

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