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親父たちよ

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  • from: クマドンさん

    2014年10月18日 05時14分50秒

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    まず薬缶に水を入れよう

    さてさて、目が覚めたので暗かったが起きてみた。薬缶をガスにかけてお湯を沸かした。すると、ジャーの時計が3時52分だった。暗いわけだ。まだ4時前なんだか

    さてさて、目が覚めたので暗かったが起きてみた。
    薬缶をガスにかけてお湯を沸かした。
    すると、ジャーの時計が3時52分だった。
    暗いわけだ。まだ4時前なんだから。
    それでも、せっかくだからと起きだした。

    最近は、早朝に目覚めることが多くなった。
    そして、不思議な体の変化に気が付いた。
    夜中にトイレに起きていないのだった。
    何度か目覚めていたはずの老体の私だったが、
    この慢性的な寝不足と、早朝起床のおかげさまで、
    爆睡が続いていた。

    もう一つは、同じ時刻に目覚めるということだった。
    5時に目覚ましをかけていても、
    目覚めるのは4時48分頃だった。
    だから、目が覚めて行動している私が目覚ましのベルを止めていた。
    体内時計は、ここいら辺りでリセットされたようだった。

    次の変化は、走れる体になっていることだった。
    やっぱり走らないと気持ちが落ち着かないので、
    晴れたいたら、ジョギングシューズを履き、外に出ることにした。
    ちょうど夜明けで、茜色に雲が染まる頃だった。
    風は冷たい。しかし、かえってそれが気持ちよく感じられる。

    走っているとやっぱり無心になれた。
    それは瞑想なのだと、ある禅の坊さんが語っていた。
    自然の中に居ると、独りではなくなる、とも語っていたなぁ。
    私は、神様に祈りながら、友と語りながら、走り抜けていく。
    そのスピードなんだ。
    このコースを30分以内で走るということは、
    1㌔6分のペースで走っていることになる。
    風を切って走る。
    2か月前には考えられなかったことだ。

    そして、夜は10時を過ぎると、いつの間にか、場所を選ばす、
    爆睡していることだった。
    昨夜は、映画館で眠り、帰ってきては、テレビの前で眠った。
    寒さに起きたら1時半を過ぎていた。
    何でこうなのだと己のことを情けなく思いつつ布団にもぐって丸まった。
    「寝られないかもなぁ」と、想ったことは覚えている。
    その後の記憶は・・・。

    走り出して2カ月でこうして私の生活は一変した。
    新聞配達の人を、起きて待っている人となった。
    生活を変えるということは、行動パターンを変えるということだ。
    そして、変えたものが当たり前の習慣になるまで続けるということだ。
    その内に自然とそのパターンに順応し、自分の生き方すら変わっていく。

    今朝もそうだった。
    まず、起きてキッチンに行き、薬缶に水を入れ、ガスにかけた。

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    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時38分21秒

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    健康的な生活ですね

  • from: クマドンさん

    2014年10月13日 08時36分17秒

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    走りぬいた私という私

    走るって何だろう。どうして私は走るに向かうのだろう。確かに走っている最中は苦しく、辛く、そしてからっぽなのだが、その走りの中で走っている自分を離れたま

    走るって何だろう。
    どうして私は走るに向かうのだろう。
    確かに走っている最中は苦しく、辛く、そしてからっぽなのだが、
    その走りの中で走っている自分を離れたままで見つめていると、
    ここで走っている私は、どうして走っているのかと、不思議に想った。

    ここまで走りこんできた自信はなかった。
    スタンドでも独りだった。
    ウォームアップする仲間もいない。
    それでも、晴天のお日様を浴びて、スタンドの椅子に腰かけて出発を待った。

    体が重かった。次々とゆっくりだが後続の人たちに抜かれて行った。
    スピードは、この体には期待できなかった。
    もはや自分の体でありながら、自分のものではないような違和感を感じた。
    「おいおい、オーバーペースだよ。」
    声をかけるが、やっぱり少々負けたくないのか、前走の女性について走る。

    萬代橋をこんなはずではなかったと後悔しながら下ってきたら、
    「クマさん、がんばれ」と、声がかかった。
    あっTさんだ。そう感じたとたんに、体と心に確かに何かの変化が起こった。
    声援とは、そんなすごい力があるものだ。
    私は、手を挙げて右に曲がった。
    そこから、「20分間走っていたら、調子がでるはずだ」と、自分に言い聞かせた。
    走ることは、対話だった。

    目の前に軽快な足取りで走る、中年の女性がいた。
    鍛えられたいい走りだった。正確に同じペースを刻んでいた。
    私は、その駆けていくジョギングシューズのテンポを見つめながら、
    そのテンポとリズムとに同調していく私を感じた。
    きっちりと1㌔6分間の走りだった。
    それは、彼女が長い長いトレーニングで会得した感覚だと感じた。

    60分を切れるのか。いや、60分をめざしてもいいかも。でね、できるのか。
    体重80キロ、そろそろ左膝と右の太ももが痛む距離だった。
    5キロを超えた。確か30分より前だったと思う。
    このまま行けたら、50分台も夢ではないと思ったとたんに、
    県庁前で失速してしまった。
    しかし、ここで落ちたら、
    そのままずるずると落ちて行ってしまうことが、目に見えていた。
    これが走るの岐路だった。まさに踏ん張りどころなんだ。

    平成大橋をゆっくりと足の痛みをチェックしながら登った。
    若い家族連れの声援や、老人夫妻の声援があった。
    それが何だかスロモーションの遠い世界から発信されたような感覚だった。
    私は、信濃川の上を、私として走っているのだろうか。
    ただ、タイムは私に対して、「切れる位置にある」と伝えてくれた。
    後は、やるか、落ちるかのどっちしかなかった。

    116号を集団が左に折れて行く。
    私はコースを記憶違いしていたようだ。
    「えっ、関屋分水を渡らないの」
    やすらぎ堤下のアスファルトだった。
    ゴールまで後2.5キロ。時計は、残り12分だった。
    「ペースを上げれば、間に合うはずだ」と、私は私に言い聞かせた。
    壊れるかもしれないよ、でもそのリスクは今の私には必要だよ。
    この距離を残して、このタイムは予想外のタイムだよ、チャンスだよ。
    膝を壊したら。心肺停止になったら。倒れてしまったら。どうする。どうする。

    いや、それでもやっぱりここで落ちたら、きっと後悔するよ。
    まず、行けるところまで、いってみないか。
    そうだなぁ、ここが踏ん張りどころかな。
    抜かれていたばかりの私は、ここから抜き手となって、
    ランナーの隙間を縫って、スピードをあげた。
    「うっ、うっ、うっ」と、声にもならないいつもの唸りで、
    前を行くランナーの背後に迫り、そのランナーを後ろに置き去る。

    競技場までの距離が縮まらない。
    残り1キロ。6分を割っていた。つまり、5分ペースで走らなければ間に合わない。
    あの水色の土管を渡す鉄橋が近づいて来た。
    競技場は後少し。呼吸で胸が張り裂けそうだった。
    それでも、腕を振った。トラックに入った。
    フィニッシュは、第四コーナーだった。残りの直線百数十メートル。
    25秒前。ああ、もう少しなんだ。もう少しで60分を切れるんだ。

    しかし、その道半ばで無情なアナウンスが聞こえた。
    あと、数十メートルだったのに、
    「只今9時になりました。スタートから1時間です」と。
    それでも、やっぱり最後はと猛然とダッシュした。
    息が続かず、苦しくて苦しくて苦しくて、
    喜びより倒れそうな自分を支えることがやっとだった。

    「終わった。」
    私は、よたよたとしながらランナーの流れに従いトラックを歩いた。
    「終わるために、必死で走る。」
    後続のランナーが次々とトラックに入って来る。
    みんなも終わるために、懸命にスパートをしていた。

    私は、私の膝やふくらはぎや太ももに心から感謝した。
    そして、ゴールを目指して唸りながら走っている時、
    思いがけずに「クマさん、頑張って」と、親子の声で大声援がかかった。
    私は、そこで息を確かに吹き返した。
    だから、Tさんと、その親子に、私は心から感謝した。
    支えられていることの、応援されていることの、ありがたさだ。

    私は、思い出した。
    スタート地点で、独り集団の中で待っている時、
    両手で優しく、愛おしく、この両足の膝を撫で、
    ふくらはぎとふとももをなでたことを。
    「頼むな。走ってくれよ。」

    走るって何だろう。
    この疲労感の中で、この記録を書いている。
    走っている自分が居た。
    そこには、やっぱりもう一人の自分もいた。

    走ることとは、そのもう一人の自分との対話だった。
    その自分とは、とても優しく、愛おしく、走っている自分に語り掛けている。
    「大丈夫だよ。やれるさ。きっとやれるよ。」

    そして、声援が力になることを実感できるのは、
    最も自分が痛み、苦しみ、力尽きようとする瞬間だった。
    力は生まれるものだ。
    そんな自分を見たくなって、人は走るのではないだろうか。
    走りぬいた私も、私なのだから。

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    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時36分41秒

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    私は第一回からしばらく連続出場しました。もうダメです。体力・気力の両方がXです。素晴らしいね!

  • from: クマドンさん

    2014年10月21日 04時44分56秒

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    宿命の重さ

    自立型多機能のホームに入っている父が、体調を壊し、入院となってしまった。昼に電話があり、これから救急車でK病院に運ぶので来てほしいとの連絡だった。血液

    自立型多機能のホームに入っている父が、体調を壊し、入院となってしまった。
    昼に電話があり、これから救急車でK病院に運ぶので来てほしいとの連絡だった。
    血液中の酸素量が減り、それをどうにか回復をしなくてはならないので、
    その内科的な治療のための入院だった。
    突然のことで動揺しながらも病院へ向かった。
    父を乗せた救急車は、まだ到着していなかった。

    父は、少し認知症が入っていた。
    特にこうして突然環境が変わったことには耐えられない。
    ベッドで上体を起こして、怒鳴り、暴れ、血液を採れないくらいだった。
    私は、その父をなだめ、声をかけ、腕をさすって落ち着かせる役目だった。
    父は、時々私をにらみ、わけの分からないことを語りだす。
    「うん、うん」とは肯いて聴いている。

    入院のリスクには、認知症の進行する場合があるとのことだった。
    やっと3時半に病室が決まり、父は車いすで運ばれた。
    その時、私の疲労感はピークに達し、
    今もそうだが頭痛がして、体がだるくて仕方なかった。
    ああ休みたいと想っても、目の前の父はそんな私に容赦なく怒鳴ってくる。

    しかし、疲れ切り、倒れそうになった私に、
    その怒鳴り声や理不尽なふるまいを受け止める余裕がなくなってしまった。
    「疲れた。頭が痛い。横になりたい。」
    私は、椅子に座って、ただ黙ってその嵐のような状況を耐えていた。
    そうなんだ。
    介護する側が疲れていたり、心のゆとりがなかったりすると、
    優しくできないばかりか、憎しみすら湧いてくるのだ。

    そんな私自身の内面の変化を、私は感じながらも、
    私のことをほうっておいた。
    夕食が運ばれてきた。
    左腕が麻痺している父には、思うようにできなく、イライラしている。
    そのたびに、苛立った口調で、あれこれと私に注文をする。
    私は、無口になり、怒りがこみあげ、黙って言われた通りにやっていた。
    すると、私の疲れは倍増し、体がだるくて立っていられないほどになった。

    「にげなくちゃ。」

    私は、そう感じ、とにかく食事を終わらせて、奪うようにして膳を戻した。
    「帰るからね」と、父を置き去りにして帰って来た。
    死にそうな私だった。

    2年前の父と母と妻との三人の同時入院のことが思い出された。
    介護には休日はなかった。
    二つの病院を回り、昼食はいつも妻の病室での弁当だった。
    母は、亡くなり、父は退院してそのまま施設だった。

    そして、また私はK病院駐車場のパスを買うことになるだろう。
    その宿命とも言える重さの中で、死にたいなぁと想ったりもした。

    父は、夜中、眠られただろうか。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時34分07秒

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    ご自身も体をいたわってください

  • from: クマドンさん

    2014年10月22日 05時35分07秒

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    明日死ぬと想って

    介護生活には、休みはない。2年前に介護休暇を取り、父と母と妻の入院の中を生活していた私の気付きだ。確かにそうだった。曜日を忘れ、休日を忘れ、どこにも行

    介護生活には、休みはない。

    2年前に介護休暇を取り、父と母と妻の入院の中を生活していた私の気付きだ。
    確かにそうだった。
    曜日を忘れ、休日を忘れ、どこにも行かず、淡々と日々が過ぎて行った。

    昨日も夕方病院だった。
    父が左腕が麻痺しているために、食事の手伝いをするためだった。
    老人の男性4人の部屋だった。
    男同士には何も会話はなかった。
    父は、眠っていた。
    しばらくすると、うっすらと目を開けて、私を確認して、片手を挙げた。

    「何で、俺はここにいるんだ。」と、看護士に何度も話を聴いているおじいさん。
    父は、そんな話すらできなくなっていた。
    何かを私に話そうとするのだが、内容が聴き取れなかった。
    「分かった。分かった。」と、肯いて合図だけは父に送る。

    布団が重いだの、毛布をどうして持ってきたのだの、お茶がこぼれるだの、
    とにかくいろいろとイライラすることを私に訴え、ぶつけてくる。
    それを全部受け取っていては耐えられないから、聞き流す術で対応する。
    なによりもこうした関係に、感情を入れないことだった。

    私は、ベットの脇で黙って文庫本を読んでいた。
    それだけだっだ。
    余計なことを言うと、倍返しで悪態が父から返ってくる。
    父は、そうやって自分の鬱憤とストレスを晴らさんとしている。
    家族だからだ。
    それは、私に対する父の甘えだった。

    テレビが消えていると、突然怒り出す。
    おしっこがしたいと突然言って、起き上がろうとする。
    看護士さんには頭を下げるが、文句だけはちゃんと伝える。
    本当にこうした老人患者をけなげに介護している看護士さんたちには頭が下がる。

    食事が運ばれてきたので、食べやすいようにテーブルの向きと高さとを変える。
    それでも気に入らないと何度も叱られる。
    そんなものだと、私は聞き流して、父に食事を勧める。
    食べている時は、静かだった。
    左手が使えないので、御飯茶碗を私がおさえる。
    おかずの小鉢を食べやすい位置に移動する。

    それだけだった。
    今、こうしてそのことを語れるのは、一緒に暮らしていないからだ。
    こうして自分の生活ができ、仕事に行け、
    その一日の限られた時間だけの介護だからだ。
    それは、本当にありがたいことだった。

    あの同じ病室の四人の老人を観ていると、
    私の明日なんだと、ふと感じられた。
    すると、本当に少しだけだが、優しい気持ちが湧いてくる。
    老いの憂いは、私にもあるからだ。

    今朝の新聞で言葉に出会った。

    「明日死ぬと想って生きなさい。永遠に生きると想って学びなさい」ガンジー

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時31分38秒

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    「介護生活に休みはない」はそのとおりかもしれません。その中で生活を楽しみ、各種ちゃれじをされている様子に敬服いたします

  • from: クマドンさん

    2014年10月23日 06時04分54秒

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    小千谷、山古志に学ぶこと

    中越地震から10年目の朝を迎えた。亡くなった人たちのご冥福を心から祈りたい。当時10歳の長女を亡くしたHさんの話が新聞に載っていた。救ってやれなかった

    中越地震から10年目の朝を迎えた。
    亡くなった人たちのご冥福を心から祈りたい。
    当時10歳の長女を亡くしたHさんの話が新聞に載っていた。
    救ってやれなかったことのやるせない気持ち。
    その深い深い悲しみは、その当事者にしか分からないのだろうと想った。

    私は、その日には小6の長男のサッカーの遠征のために、長野の菅平に居た。
    牧場で牛を見ながら、霧の中でのサッカーの応援だった。
    揺れた揺れた。しかし、情報とはすぐには伝わらないものだった。
    まだ携帯もそんなに普及していない時代だった。
    私たちは中越で起こっている惨事を知ることができなかった。

    小千谷のSさんの自宅は、川の氾濫により浸水していた。
    今は、こうしてSさんとはよく連絡を取り合い、
    「途中の会」と称する、謎の会を開催する関係になったが、
    当時の私にとっては、小千谷は遠い土地だった。

    越後川口は震源地であった。
    集落の7割の家屋が全壊や半壊であったそうだ。
    町が無くなり、多くの尊い人命が失われた。
    しかし、私はニュースで知るだけで、そこに駆けつけるわけでもなかった。

    山古志は山が崩れ、谷に村ごと流されて、全村・全住民の避難だった。
    今でも谷に埋もれている家屋があると新聞は伝えている。
    しかし、山古志は、「山古志に帰る」を祈願として、それを実行した。
    そして、山古志には、復興してから数年たった今年、
    私は、行って、その復興の陣頭指揮に立ったAさんのお話を聴くことができた。

    地震の日、私は中越から遠い遠い長野の菅平だった。
    今は、新潟市に住んでいる。
    しかし、小千谷に「途中の会」で通うようになり、
    山本山からの絶景を見ることで、小千谷が不思議と私の魂に入ってきた。

    山古志もそうだった。
    初めて訪れたはずなのに、そこは懐かしい故郷のように、
    私にとっては原風景のように感じられた。
    「ここに住みたい」と、そんな願いももってしまった。

    地震から10年たった日。
    遠い長野に居た私が、今では小千谷と山古志とに憧れて暮らしている。
    そして、この町や村での復興こそが、
    都市部での過疎化した町を復活させるための先行事例だと私は想っている。

    私たちは、小千谷や山古志の人たちに学ばねばならない。
    そのことを、Y通信には書いて、3年間のコラムに幕を下ろそうと考えている。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時29分21秒

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    あの逞しい行き方から学ぶことは大きいですね

  • from: クマドンさん

    2014年10月24日 05時58分22秒

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    野良人になる

    昨日、赤く色づいた桜の葉っぱを20枚ほど拾って、並べてみた。どの葉っぱも色の付き方や、色のあせ方が違って、それぞれとてもきれいで、個性的だった。自然に

    昨日、赤く色づいた桜の葉っぱを20枚ほど拾って、並べてみた。
    どの葉っぱも色の付き方や、色のあせ方が違って、
    それぞれとてもきれいで、個性的だった。
    自然にあるもので、同じものは一つもない。
    それは、こうして手に取ってみることでよく分かる。

    まっすぐなものも一つもないな。
    まっすぐな線を定規で描いても、
    そんな直線は、この自然の中にはどこにもなかった。
    みな曲り、ゆったりとしなやかに生きている。
    まっすぐ曲がりながら育っている。

    変わらないものも一つもなかった。
    すべてのものは変化する。
    私も自然の一つだから、毎日毎朝毎晩と変化の連続だ。
    ベルトがきつくなり、左腕の痺れが和らぎ、偏頭痛は毎朝訪れる。
    自分をやっぱり自然なんだと、その自然の一部として認識する。
    すると、そのままでええがなぁと、思えることもある。

    すべての対立や争い、否定や中傷や排外は、不寛容から起こる。
    「イントレランス」という往年のハリウッド映画の大監督であった、
    名前を突然忘れた人が、そう語っていたことを聴いたことがある。
    「トレランス」は「寛容」だ。
    「イントレランス」は、その反対だから、不寛容だった。

    私は、学生の頃この話を聴いた時、ひうかなぁと少々疑問だった。
    しかし、今ではこの言葉は真実だったと言えるようだ。

    自然のものは、全て違って、同じものはどんなに探しても一つもない。

    まっすぐに定規をひいたような規格品も一つも存在しない。

    全てのものは刻々と変わり、一つとして同じものとしてとどまることはない。

    そうした自然の個性と変遷とあるがままの姿を知れば、
    ありとあらゆるものは「あり」なのだと分かるはずだ。
    飛行機に乗って地上を見たとき、どこにも国境が引かれていないのに驚いた。
    本当は、ボーダレスでありながら、
    そこに目には見えないが、国境を決めたのは、人の心だった。
    ここから先は、違う国。
    ここから先は、違う国民。

    しかし、そこには必ず「不寛容」が存在し、
    「差別」や「偏見」が存在している。

    この人たちはよくて、あの人は駄目なのだそうだ。

    そうかなぁと、そんな話を聞くたびにいつも思う。
    そんなら、そう決めつけているあなたはどうなのだと。
    あなたのように考えられる人が正義で、そうではない人が悪なのかと。
    あなともその一人でしか過ぎないのに、
    どうして他の人たちの価値を勝手に決めつけて、批判するのかと。

    「それで、いいんだ」byバカボンのパパ

    ジョグのコースで、松林を降りて海岸に向かう坂道で、
    よく出会う猫がいる。
    「おっ、いたなぁ、おっはよう」と、会うたびに挨拶する。
    体が大きくて、藍色のようなぶちが入っている猫だ。
    「また、うるさいのがやってきたな」とばかりに、
    私が歩いてくると、のそのそと垣根を越えて消えていく。
    本当に消えていくという表現がぴったしの消え方だった。

    私は勝手に彼女を心の友としている。
    だから、会えないときは、ちょっと寂しい。
    「野良猫。野良犬。野良人。」

    私は、彼女から「野良人」という生き方を教えてもらった。
    その生き方こそ、この自然の中で生きる独りとしてはふさわしい気がした。

    野良人は、何もこだわらず、トレランスな魂の人なんだ。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時27分50秒

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    「木のこん」の裏山に行くと遊び場が多くて面白いですね

  • from: クマドンさん

    2014年10月25日 07時07分49秒

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    父が消えていく日

    父の退院が決まったらしい。月曜日に医師からの説明があるから、病院に来てほしいとのことだった。昨日行ったら、父はいつもと違って普通の人だった。ベッドに腰

    父の退院が決まったらしい。
    月曜日に医師からの説明があるから、病院に来てほしいとのことだった。
    昨日行ったら、父はいつもと違って普通の人だった。
    ベッドに腰をおろし、テーブルの位置を食べやすいように変えて、
    食事が来るのを待っていた。
    「いつ、来るんだ」と、夕食が届かないことを怒ってはむいたが・・・。

    聴くと、既に一時間前からこうして座り、
    テレビを観ながら夕食が来るのを待っているのだそうだ。
    まだ6時前だった。来るわけがない。
    「まだ、見えねぇか」と、見てくるように催促をする。
    私が廊下に出ると、はるか先に食事を積んだコンテナが止まっていた。

    「もうすぐ、来るよ」と、言うと、
    「どうしてこんなに遅いんだ」と、また怒り出した。
    しかし、今日は怒ることの理由は、ある意味理解できる。
    イアーホンを付けながら、「テレビの音が聴こえない」と怒鳴った日よりかは。

    父と向き合うと、老いについて考えさせられる。
    男独りの老いの重みと侘しさとでも言うのだろうか。
    息子としては、不謹慎なことだが、
    私は、父を見ていたら、そんなに長生きをしたいと思わなくなっている。

    父は、84歳だった。
    入院の時に個票を書くとき、私も父もその確かな年齢を知った。
    認知のような症状が出るわけだった。
    「お年だからねぇ」と、父のちぐはぐな言動に看護士さんも笑顔だった。

    父は、父でありながら、父ではなくなってきていた。
    父とは、そんなに語り合ったことはなかったが、
    いつも酔っぱらって暴れたばかりの人だったが、
    母が言うように、魂が純粋で、きれいなために、
    世の中とはなかなか折り合いがつけられず、
    生きづらさを感じていた人でもあった。

    常識や世間体や権威の人ではなく、ある意味自由人だった。
    そのおかげで、私は父と暮らすことに抵抗感は少なく、
    父を大嫌いになることもなく育ってきた。
    今は、妹と二人、父の理解者である気がしている。

    そんな父だったが、今はそんな父はどこにも存在していなかった。
    どうなってしまったのだろう。
    父を黙って見つめながら、そんなことを考えることがある。

    父は、退院しても、施設に戻るだけだ。
    そして、一日一日老いていく。
    老いるということは、自分であったものを少しずつ失くすということだ。
    姿形はあっても、父という人は、
    削られるように少しずつ私と妹の前から姿を消している。

    いつか、私をまじまじと見ながら、
    「どなたさんでしたかねぇ」と、言う日が来るだろう。
    それはそれは、とてもとても悲しいことではないだろうか。
    記憶の中での家族が消える。

    後10年くらい生かしてもらったら、いいかもです。
    でも、その年になったら、ヤッパリ生きたいとしがみつくのかもしれない。

    退院しても、父は日々消えていく。枯れていく。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時26分47秒

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    80歳をすぎると仕方ないかもしてませんね。私も両親には、安らかに老いてほしいと願っています。

  • from: クマドンさん

    2014年10月25日 14時09分54秒

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    まち歩きの楽しみ

    よく新潟市は見るところがない。県外からのお客さんを案内する場所がないと言われる。しかし、本当は見どころ満載のまちだった。ただ、知らなかっただけだった。

    よく新潟市は見るところがない。
    県外からのお客さんを案内する場所がないと言われる。
    しかし、本当は見どころ満載のまちだった。
    ただ、知らなかっただけだった。
    かく言う私もその一人だ。

    私は、新潟検定や、シティガイドに興味をもってから、
    古町や下町の歴史について調べるようになった。
    すると、なかなか興味深い歴史と文化が残されていることに気付いた。

    下町のNさんは、長年小路や街並みの写真を撮り続け、
    とうとうご自分のイラストを使って新潟市の支援で、
    小路の案内柱?を建てている。
    その案内柱は、沼垂の小路にも建てられた。
    ごらんになった方も多いと思う。

    どんな片隅のささやかな場所にも、由来があり、歴史があるものだ。
    そのことを知ることで、Nさんはこれは楽しいと思い始め、
    まち歩きを始めたそうだ。
    彼は、まさにまち歩きの達人である。
    そんな当たり前だった人を、まち歩きの達人にしてしまうほどの魅力が、
    やっぱりどんなまちにもあるものだと、私は思っている。

    今日の午前中には、「えんでこ」で、下町のまち歩きをした。
    本当に2時間たっぷりと歩いて、へとへとなのだが、
    やっぱり意味や歴史や由来を理解しながらのまち歩きは楽しいと感じた。

    これから用事があって出かけるので、
    詳細はまた帰ってきてから、ワインを飲みながらゆっくりと語りたい。
    それほど奥の深いまち歩きに、
    やっぱりみなさんをご招待したいと思っているからだ。

    帰りにおいしい美味しい赤ワインを勝って来よう。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時25分03秒

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    どんな人。団体と歩いているのですか?

  • from: クマドンさん

    2014年10月28日 06時14分11秒

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    アチコタネーゼ

    「クマさん、読んでいますよ」と、嬉しい便りがこの前届いた。この反応がとてもありがたかった。誰かとどこかで繋がっていると感じるからだ。しょせん独りなのだ

    「クマさん、読んでいますよ」と、嬉しい便りがこの前届いた。
    この反応がとてもありがたかった。
    誰かとどこかで繋がっていると感じるからだ。
    しょせん独りなのだが、されど独りなのかもしれない。
    独りだからこそ、独りとの繋がりを求めるものだ。

    ここに登場しない日々は、いろいろとあった日々だ。
    昨日はやっぱり自己嫌悪のどん底に落ち込んだ。
    危ない危ないと想いながら、じっとその底で貝のように耐えていた。
    時間がきっと解決してくれるはずだ。
    忘れるということも、諦めるということも、こんな日には大切なことだった。

    左ひじのテニス肘というやつが痛み続けている。
    垣根に顔を突っ込んで、何と眼鏡を失くしてしまった。
    サングラスで一日を過ごした休日は、飲み過ぎで途中の記憶が途切れていた。
    そんなこんなの連続だったが、実は収穫も多かった。

    土曜日は、「えんでこ」で、下町の町歩きだった。
    視点を変える。お宝を探す。アンテナを敏感にする。
    するとあるある。まちには興味深いものや人に溢れているのだった。
    ガイドのTさんが素晴らしかった。
    謙虚で、あるがままで、ご自身もまちのガイドを楽しんでいた。
    このまちで働き、このまちでさんざん飲んだ人らしい。
    だから、面白い裏の歴史や事情を聴けた。
    今回の発見は、日和山五合目のNさんが開いたカフェーだった。
    人の生業と住み方で、そこの風景がこんなに変わるものとは感動だった。

    帰りに古町で、岩船ポークを使ったうまい焼肉丼に出会い、幸せになった。
    うまいものを食べることが、幸せな気分になるための一番の近道だ。
    こんな時は、必ずマスターにべた褒めをする。
    すると、マスターも幸せになり、私ももっと幸せになる。
    そんな出会いがあるから、人生はまだまだ捨てたものではなかった。

    何と、このクマさんが、新車の購入だった。
    前のステップワゴンには15年間乗った。
    車は走ればいいから、傷だらけ、凹みいっぱいの車でも、
    愛着とプライドをもって乗っていた。
    しかし、寄る年波には勝てず、エンジンを支えるシャーシーが腐食していた。
    「いつエンジンが落ちるかわかりませんよ」とのこと。
    だから、仕方なく目の前にあるフリードを「これにします」と、購入だった。
    これで、逃げられない借金をどんと肩にしょった。
    この新車、ハイブリッドなんだ。
    なかなかの車に、何だかこちらが運転させられている気もしている。

    日曜日には、小千谷に行っての「途中の会」だった。
    この会での出会いと学びとに、私は今生かされている。
    ごくごく自然に空気のようにあるがままを互いに受け入れられる関係。
    それは、とてもありがたいもので、自然の中で抱かれるような安心感すら感じる。

    岩沢という集落の人たちが創造したお祭りに参加した。
    ストリートの一角を通行止めにして、屋台を出し、酒を飲み、土地の歌を歌っていた。
    地域おこしというけれど、この祭りがあることで、
    本当に地域の人たちが笑顔で、一つになっていくのがよく分かった。
    みんなそれぞれが知り合いだった。
    久しぶりの人たちもそこには居ただろう。
    でも、この祭りがその人たちの繋手となってくれていた。

    祭りは、やるべきだ。
    祭りが無かったら、創ればいい。
    そして、そこには若者を呼ぶべきなんだ。
    この祭りを主催している若者たちの団体の名前が、「アチコタネーゼ」だ。
    これは小千谷の方言の一つで、「大丈夫、大丈夫、心配するな、何とかなるさ。」
    酔っぱらいのおじさんが、同じく酔っぱらいの私にそう教えてくれた。

    「アチコタネーゼ」
    その言葉は、今の私のためにあるような言葉だった。

    どん底で、危ないなぁと自覚している状況の中で、
    そう声をかけて、親身になって心配してくれる人が、人には誰か必要なんだ。
    私は、その言葉の深さを感ずるとともに、
    そう言ってくれる隣人をもっているこの岩沢の人たちが幸せな人たちに思われた。

    せめて、人から言われなくとも、
    「アチコタネーゼ」と、優しく言ってあげられる人に、私はなろうと思っている。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時23分55秒

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    最後の一文、いいですね!加油!

  • from: クマドンさん

    2014年10月29日 05時45分46秒

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    風邪をひいたら

    昨日から、風邪をひいた。喉が痛く、咳が出る。季節に敏感に反応するものだ。それも、体力がなくなり、抵抗力が弱くなったせいだろう。アチコタネーゼの話だ。「

    昨日から、風邪をひいた。
    喉が痛く、咳が出る。
    季節に敏感に反応するものだ。
    それも、体力がなくなり、抵抗力が弱くなったせいだろう。

    アチコタネーゼの話だ。
    「大丈夫、大丈夫、何とかなるさ。心配するな。」
    私が一番苦しかった時、救ってくれたのはやっぱりこの言葉だった。
    というよりか、そんな私の心の苦しみを感じて、
    これ以上耐えていたら壊れてしまうと感じてくれた隣人がいてくれたおかげで、
    今の私があるということだった。

    アチコタネーゼは、とてもおおらかな言葉だ。
    そして、心の重荷を取り去ってくれる、優しい言葉と感じた。
    人は、それぞれ重荷をしょって生きている。
    やっぱりそれぞれがそれぞれの心配事をもっている。
    そんな時に、そん悩みを察してくれて、
    「アチコタネーゼ」と言ってくれる隣人がいることはありがたいことだった。

    しかし、その言葉を伝えるその人も、きっとこの言葉で救われた一人なのだろう。
    あの酔っぱらいのおじさんも、この言葉で育ってきた一人だと感じた。
    「そんなに一生懸命やらなくてもいいがな。」
    「そんげなことでくよくよしねでいいがな。」
    「失敗したっていいねっか。またやれるてば。」
    心が落ち込んで辛いときには、この言葉は魔法の言葉となる。

    もしも、そう言って、優しく抱き留めてくれる家族や友や隣人がいなかったなら、
    自分独りで、自分に向かって優しく語り掛ければいいと思う。
    確かに、どんなに失敗し、間違ったことをし、人に迷惑をかけてきたか、
    そんな私でも、振り返ってみたら、今をこうして生きている。

    その最中にある時は、絶対に取り返しがつかないことをしてしまったと後悔し、
    焦りからどうにもならないまで自分を責めつけたことがある。
    夜中に目覚めて、それからは最悪なシナリオばかり考えて、
    朝が来るのがどれだけ怖かったことか。

    しかし、私は、死なずに生かされてきた。
    それは、やっぱり家族や友や隣人のおかげさまだった。
    「アチコタネーゼ」と、言ってもらえた。
    それは、「私がここに居るよ。」「私も一緒だよ。」という想いでもあった。

    やっぱり「優しさ」とは、「憂い」の隣に寄り添っていてくれる人にある。

    実は、そんな優しさを感ずることができるのが、
    やっぱり家族であり、友であり、隣人である人の居る「故郷」なんだ。
    「ふるさとは 語ることなし」と安吾は言った。
    言葉では語らないかもしれないが、
    この故郷に抱かれた安心感は、何と言って表現したらよいのだろうか。

    ふるさとは語らずとも、アチコタネーゼと抱きしめてくれる。

    昨日、風邪薬を買ってきた。
    寒気がするので、早めに布団に入って寝ることにした。
    風邪をひいたら、風邪薬。
    心の風邪には、アチコタネーゼ。

    心がや弱り、抵抗力がなくなった人への特効薬だ。

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    waka

    from: wakaさん

    2014年11月04日 11時22分07秒

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    いい言葉に出会いましたね。中国語では、「没問題」「没関係」といいますね。

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